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写真。
子どもが生まれて、写真やビデオを夢中で撮った。
それを見ることが出来なくなってしまう日など、想像もしていなかった。

娘と息子は、今、難病と共にある。
薬などほとんど服用しなかった娘は、大量の薬を飲んでいて、
その副作用と痛みから、寝たきりになることも多かった。
走るのが速く、体育だけが得意だった息子は、
学校の行事で、大腿骨頸部を骨折し、骨はついたものの、
壊死となってしまった。加えて、ネフローゼ症候群にかかり
現在、ステロイド剤を飲んでいる。
ステロイド剤が、多くの恐ろしい副作用をはらんでいることは良く知られているが
その中の大腿骨壊死という言葉は、わたしを寝かせてはくれなかった。

子ども達はなんて気の毒なのだろう。

そう思う度、胃の辺りがキュっとなり、息苦しくなった。
こういう時は、涙など出ないものだとも知った。

ご近所の方は「お子さんはどう?」と、涙を流しながらわたしの話を聞く方も多かった。
もちろん、共感をしてくださっているのかもしれないけれど、
わたしにはその涙が時々不思議だったし、共感というよりは
きっと遠い遠い話を聞いている感覚なのだろうと思った。

そう、遠い話なのだ。

そしてそれは、わたしが子どもに対して「かわいそう」だと思うことと同じ。

ある人に「代わってあげたいでしょう?」と言われたが、その時
「それはできないわ。」と即答していた。
もちろん、代わることなどできないことを前提としているのは承知の上だったし
「そうね、代われるものなら、ね」といえば、会話はスムースに終わっただろうけれど
わたしは、時々こんな風に話の腰を折ることがある(笑)。

しかし、あの時、わたしは気付いたのだと思う。
子どもの痛み、いや、子どもだけではない他者の痛みを共有することなどできない、と。
それも、勿論知っていたはずだけれど、心からそう思えた。

数年前のわたしが、このくだりを読んだとしたら
「なんて、冷たいの?それでも母親?」と激怒したかもしれないが、
この数年、子どもの病と共に生きてきて、やっとここまでたどり着いた。

わたしが想像する彼らの”痛み”は、やはり想像でしかなく、
その想像が彼らを知らずに追い詰めていることだってあるかもしれない。
それを「母親だから」と見過ごしてしまうことの方が、わたしは気にかかる。

子どもを産んでからというもの、世の「母性」という言葉の乱用に辟易していた。
しかし、わたしはいったいどこにウンザリしていたのかがわからなかった。
おそらく、母親というただの人間を母性という神聖なものに置き換えて
その子どもであるただの人間の人生を
”我が物”にしているようなニュアンスが嫌だったのだとわかった。
これは、たぶん、わたしの歪んだ受け止め方なのだろうけれども。

子どもはわたしを通ってきたに過ぎないのに。

母性は、自分の子どもだけに与えるものではないはずなのに。

「ツリー・オブ・ライフ」という映画の中で、わたしはある言葉に救われた。
子どもを事故で失った母親の苦しみを描いた場面での、
「子どもを守ることはできない」というセリフだ。
今でも時々心の中で呟く。
逆説的に聞こえるが、これが「母性」だとすら感じる。
それだけ辛辣に、そして、優しくわたしに響いた。

そこには、わたしにとっての「許し」が、あった。

わたし達は、力ずくで何かを守る日々なのかもしれない。
幻のような何かを。

それをやめてしまったらどう?

我が子を守ることは、当たり前だ。
けれど、それにばかり必死になってしまうと、子どもが見えなくなってしまうかもしれない。
子どもを見つめるため、わたしは”共有しようと努力する”ことをやめた。
そうしたら不思議なもので、何かが変化してきた。
わたしの目線が、子どものうしろ姿に行くようになったのだ。
そう、彼らの背中へ。

彼らが逞しく思えた。

今日、PCに送られていた、まだ幼い頃の元気な子ども達と写った写真を思いがけず見た。
とても久しぶりに。。。
わたしは、あまりいい表情をしていない。
今の方がマシかもしれない、と思ったら、少し勇気が出た。

幻影のような写真を整理しよう。
ほとんどを捨てることになるかもしれないけれど、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
存在を忘れてもいいくらいの適当さで。
そうすれば、”瞬間の共有”に、敏感に反応できるかもしれないから。
# by normalin | 2012-04-29 22:10 | YOGA | Trackback | Comments(2)
学ぶこと。
やりたくなかった仕事をやることになった。
医療関係のものだが、職場がそうだから仕方がない。
あまりにもやりたくないから、別の仕事を探そうかと思ったけれど
そんなにも拒絶する確固たる理由が見つからないし
これは贅沢な悩みだろうと思ったので、勉強を始めた。

そう、放射能のことだってたぶん一番やりたくない、
いや、知りたくもなかったはず。
今でも別に好きではないし、
知れば知るほど絶望的になってしまう。
それに、楽観している方からはデマに毒された神経質な人と笑われるし。

けれど、何故かすんなり入ってくる。
好きで勉強を始めたものよりずっと。
そこには思いいれがないから?
というより、やらなければならないという意気込みがあるから?

タイに住んでいたころ、
子どもはまだ小さくて、バスタブに溜めた水に潜れば
ひきつけを起こすほどの高熱と、目が開かなくなるという事態になったり
デング熱とう熱帯特有の熱にかかりそうになったりと
日本ではありえない得体の知れない病で、しょっちゅう病院に駆け込んだ。
だからどうしても、タイ語が必要になって、学んでいたけれど
あれだけ親しんできた英語よりも、スイスイ頭に入ってきた。
生死に関わることだからかもしれない、と思う。
もう、すっかり忘れてしまったけれど。

振り返ると、わたしは自分から好んで学んだことがあっただろうか?

もちろん、ヨガは好きなんだと、思う。
好きだから学び始めた。
しかしこれは、好き、嫌いの範疇には納まらないもの。
ただ、出逢った。
偶然ではなく、合致したようなそんな出逢い。
だから、もともと「好き」だというものでもないし
選んだものでもない。
ヨガだけが最高だ、とも思わない。
ヨガの聖人だけが、素晴らしいとも思わない。

素晴らしいと思える人は、すぐ近くに存在する。

ただ、必要なだけ。

今のわたしに。いや、これからずっと。


日本がこうなってから、様々な知識人といわれる人々の話を聞く。
または今まで知らなかった人、、、知ろうともしなかった人の話。
見知らぬ人の”つぶやき”。
膨大な情報が駆け巡る。
真実はどこにあるのだろう?と焦り、共感し、情けなくなる。
学びとは、真実を求めるものだろう。
けれど、その裏にあるものの偽りが大きく浮き彫りになり、
それを知る度に疲弊してゆく。。。

「放射能が好き。」

と、わたしは先日ある人に冗談まじりに言った。
自分でも驚いたけれど、その人にはいつだって予期せぬ言葉を口にしている。
たぶん、心から信頼しているのだろうと思う。
きっと、自分のことよりも。

原子力を学んできた人々は、もちろん興味があって始めたのだろうと思う。
けれどあまりにも好きになると、何も見えなくなる危険性がある。
恋は盲目。
けれど、恋ではなく、愛がある人は違う。
能動的に学ぶことができると、思うから。
きっと、自分の損得のことよりも。

学ぶしかない。
子どもたちに絶望の姿だけは見せたくない。
アレクセイと泉】のように解明できないことだってきっとあるはず。
と、信じて。





# by normalin | 2011-11-23 15:22 | Trackback | Comments(0)
蝉が啼く、当たり前の夏に。
昨晩、バルコニーにオスの蝉が飛んできた。
網戸に停まり、猫が大騒ぎ。
獲物を狙う体勢の猫が気になって、バルコニーから蝉を出してやろうと
何度も何度も放つが、その度血相(?)を変えて、飛んで帰り網戸にしがみ付く。
あきらめて家に入ると、猫がまた腰を低くして何かに忍び寄る。
その先を見たら、取り込んだ洗濯物に蝉がいた。
啼かないところを見るとメスの蝉。
そうかそうだったのか、とその蝉をバルコニーから放った。
まだ網戸の下にウロウロしていたオスの蝉にお知らせして。
猫や、人間という”天敵”がいるというのに飛び込んできた蝉。
種の保存は命がけ。

彼らは、また逢えたかなぁ。

そう、命がけなんだよね。
人の思想と行動も、種の保存に支配されているというけれど、
その中の、恋愛や育児の他に、
同じ種の個体を助け合うという行動が基本にあるはず。
だから他を助けるという行為は、別に美談でも何でもなくて、当たり前のこと。

けれど、人間の場合「社会」というのが基盤にあるからややこしくなるのかもしれない。
そこに”適応”してゆく上で、様々な「記憶」が書き換えられ、邪魔をする。
例えば、お金やステイタスを保持してゆこうとするとき、
他を蹴落としてゆかなければならない場合だってあるかもしれない。
天敵を持たない人間は、戦争によって進化し、
種の保存を保ってきたという説もある。

けれど、人間が創りだした”天敵”は、もはや手におえない。

今、種の保存の視点から捉えれば、まさに危機的。
”負”の状況下にいるというのに、どういうわけかとても静かだし
受け入れてしまっているようにも見える。
”天敵”に対して、口をつぐんでいることが”正しい”ことのようにさえ思えてくる。
社会のルールに従っている?
それを「知的」と言うの?

わたしは今、どうも国自体が異常行動を起こしているようにしか見えない。
これはきっとエラー状態なんだと思う。
まるで麻薬の薬が切れかかっているかのような、そんな感じ。
ここで断ち切らないとオーバードーズだよ。
もう、すでにそうだったのかもしれないけれど。

「とんで火に入る夏の虫」にならないために、人間には知性がある。
これを使わないのは、どうかと思う。
いや、そもそも人間自体がエラーだったのかもしれないけれど、、、
でも、だからこそ智恵を授かった。これを駆使しないとって思う。

実に当たり前のことだけれど。

それを駆使するっていうのは、考えすぎることではないと思うんだよね。
自分の”知識”において、それは違うとか正しいとか。
あれはニセモノだとかホンモノだとか。。。
それこそ”記憶”や”肩書き”が邪魔をする。
考え過ぎない方が理解しやすいこともあるとおもう。



蝉を、ただ”観察”するみたいに。。。

さて、蝉は来年も、当たり前に啼いてくれるだろうか...
# by normalin | 2011-08-19 23:31 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
Blue Moon
いつだったか、ダイエットを特集した番組で
部屋中を青くすれば食欲がなくなるからと
食べ物にまで青の色素を混ぜていた様子を見た。
それで体重が減ったかどうかは、わからないが
そこまでのことをするエネルギーがあったら、
もっと簡単にダイエットなんて出来るんじゃないかと思ったっけ。
何かを達成するために、回りくどいことをしてしまうのは実に滑稽だ。
けれど、わたし達は、そんなややこしいシステムの上に暮らしているのかもしれない。

それにしても、青いケーキとか、、、ちょっと”ありえない”。

今夜はブルームーン。

ひと月に2度目の新月。とても稀な現象。
ブルームーンという言葉は、16世紀頃“非常にばかげたこと”として使われ
この“ばかげている”という意味から、
“月が青くなるなんてありえない”“決してない”(never)という意味が生まれたという。

しかしありえないことは、どんどん起こる。
社会の中でも、、、そして自分自身の中でも。
それを拒絶するだけで片付けるのは、なんてつまらないことだろう。
ただ”ありえない”からと。

経験は、時々邪魔になる。
それをアウトプットしようとするとき、
きっとどこかで”操作”してしまうような気がする。
自分を肯定するために。
その肯定は、時に、システムに組みこまれた自分であって、
他者から賞賛されたい自分であって、
そして、何より安心したい自分であって。

今、わたし達は誰も経験をしたことがない状況下にいる。
それが得体のしれない恐怖であることも否めない。
でも、だからこそ、肯定も否定もする必要がないのは
少し”楽”になれるチャンスかもしれない、と願いたい。

今日はBlue Moonだからね。
稀な日だから、稀なこと考えてみる。
でも、稀なことはそこいらに転がってるよ。
人との吸い寄せられるような出逢いだって。。。おんなじ。



ところで。
チェレンコフ光の青色は、吸い寄せられるほど美しいらしい。
こちらは、青いケーキなんかより、ずっと”ありえない”けど...


<追記>
7月は新月が2回という珍しい月でした。(満月は7月15日)今日は新月の2回目。
正しくはブルームーンではなかったですが、願いごとが叶うと言われています。
# by normalin | 2011-07-31 18:20 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
逃げること、逃げないこと。
最近、酢を使った料理が多くなった。
世界最古の医学、アーユルヴェーダによれば
酸っぱいものを多く食すと、批判的になるという。
わたしはもともとアナーキーな考えが好みであったせいか
震災から、より一層批判的な目線であったことは確かだし、
もしかすると、酢は欠乏による摂取かもしれないなどと逆説的に思いながら
今夜も酢っぱい料理を食べたくなったのを、とりあえずやめてみることにした。
何でも「過ぎる」のは良くないし。

ところで、ここへきてわたしは若い頃から興味のあった
ユダヤ人に関する本を再読している。
今までは彼らの歴史的背景にばかり気を取られ、
響いてこない部分も沢山あったものの、日本がこうなった今
彼らの生き方が、生々しく迫ってくるようになった。
危機に直面するのは悪くない。と、思う。

とはいうものの、ユダヤ人の歴史はずっと危機の中にあった。
想像するだけで疲れてしまう。
しかし、全ての五感を使い、身体全体で危機を感じ続けた歴史が、
世界的な天才を輩出してきたのかもしれない。

「渡り鳥の子3羽」というユダヤ人に語り継がれる寓話を見つけた。

渡り鳥が3羽の子どもを産んだが、寒波が襲ってきて
暖かい場所へ移動しなければならなくなった。
まだ飛ぶこともままならない子どもたち。
母鳥は、1羽だけ背中に乗せて逃げることにした。
3羽はそれぞれ次のように言った。
「お母さん、もし僕を連れて行ってくれたら僕は一生懸命働いて
お母さんを宮殿に住まわせ贅沢な暮らしをさせてあげます。」
「お母さん、もしも僕を連れて行ってくれたら、僕は一生懸命働いて
お母さんの面倒を心を尽くしてします。」
「お母さん、僕は努力はしますがどれほどのことが出来るかわかりません。
ただ、子どもが生まれたらお母さんから教わったことを子どもに伝えます。」
そして母鳥は3羽目を選んだという。

とてもかわいそうな話だが、ユダヤ人にとって「生き残る」とは
想像を絶するものだったことが伺える。
けれど、こういう寓話は日本には存在しないだろう。
日本の場合は「親孝行」話が好きだ。
そう考えると「かぐや姫」は少し異質で面白い。
可愛がって育てた子どもが遠い月へと帰ってゆくことは、3羽の渡り鳥のように
見返りを期待しないという意味だろう。

そして想像してみる。もしも、この渡り鳥の寓話を日本版にするなら
寒波の中、傷つきながら3羽を守り続ける母鳥の姿かもしれない。
それを”母性の美しさ”と涙をさそうかもしれないが、わたしはそうは思わない。
「子どもを産んでいない人は母性がわからないだろう」という人がいる。
それは違うと思う。
自分の子どもを守るのは単なる本能であって、母性ではないと。
そして、母性は子どもを持つ女性だけに備わっているものでもない。
もっと普遍的なものだと思う。

わたしは、見返りを期待しないことが母性だと考える。
この国にも見返りを期待しなければ、文句は出ない。
しかし再建したいと思うから、批判的になる。

ただ、この状況でどうしてもしてはならないのは
寒波の中、3羽の子を抱えて”共倒れ”することだと思う。
それは美しくもなんともない。
非情な決断も、また母性だと思うから。

んーー。
まだ酸っぱいものが抜けてないかもしれない。。。
# by normalin | 2011-07-05 22:30 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
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