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さようなら

近頃の卒業式では「仰げば尊し」を歌わない学校が増えてきているとか。
その理由として、、、巷では
「先生が生徒に感謝の気持ちを押し付けるのはいかがなものか?」
ということがあるらしい。
確かに感謝をしろと強制するのはおかしいが
そこまで大げさなものなのか、と、この歌を当たり前に歌ってきたわたしは思ってしまう。
「いざ、さらば」
の部分は、涙でほとんど歌えなかったけれど。

今日は息子の卒業式であったが震災の影響で取りやめになった。
先週、帰宅できず学校で一夜を過ごした息子にとっても納得の状況。
あれから一週間。誰もが長い七日間を感じたことだろう。
先週のその時間、わたしは娘と家に居た。
扉を確保しつつ、テーブルの下にもぐっていたという娘と
「これで別れることになるかもしれない。」と、大声で娘の名前を呼んだ。
その時「さよなら」と言ったほうがいいかなと、思いつつ。。。
今となっては大げさな話だけれど。

地震。。。
わたし達は幼い頃から、この自然の持つ力を身をもって体験してきた。
そしていつか大地震がやってくるのだという恐怖を
「まだ、だいじょうぶ」と騙し騙しやってきた。

日本人は大昔から自然の猛威と恩恵の間で生きてきた。
優しく穏やかな恵みをもたらしてくれたその直後に、全てがさらわれてゆく。
そんな歴史を繰り返してきた。
もちろん、強い、と思う。
しかし、自然を人間に置き換えてみるならどうだろう。
頼るべき優しい人が急に牙を向く。
こんなに辛い矛盾に対処するには、それを見て見ぬふりをする、
いわば錯誤の状態にしておけば楽になれると考えたとき
災害の度に立ち直ってきた日本人の”強さ”は
「あきらめる」という意識が潜んでいるように思える。
「さようなら」にも似た感覚。
中国語の「再見」ではなくて、
英語の「Good Bye」でもない。
しかし、これは昔の話。
現代は自然と向き合っているだけではない。
今回の震災では、人災ともいえる原発事故が起こった。
今までの”強さ”だけでは無理だし、あきらめることも出来ない、してはならない。
現実を直視することがわたし達に求められている。

秩序正しいといわれる日本人の姿は、海外でも感心されているが
長所と短所は同居するものだ。
”スレてない”日本人はきっと純粋だろう。
けれど疑問を抱かず、ただ根拠なしに「だいじょうぶ」と、
毎日”キチンと”やり過ごしてゆくことだけに従事するのは、
もはや地球規模の罪になるかもしれない。

だからこの機会に「さようなら」を言わなければならないと思う。
これまでの錯誤の上に立つ”強さ”に。

「さようなら」は「そうであるならば」という接続詞が語源だ。

そうであるならば、、、

と続く未来はこれからわたし達、ひとりひとりが引き受けなければならない。
周囲との足並みを崩さないような強さではなく
崩してゆく”強さ”も必要になる、と思う。
そこに「秩序」が加われば最高だ。

そして、見て見ぬふりをしてきた「強制」にも、
さようなら、、、
by normalin | 2011-03-18 22:50 | 雑記
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