カテゴリ:雑記( 13 )

山本太郎さんとの関係。

衝撃的なタイトルですよね。
まだ山本太郎さんには、何かあったのか!?という。
いえいえ、ただの主婦であるわたしの小さな話なんです。
やっぱりタイトルは大事ですから、すごく考えました。すみません。

わたしは、レコードよりライブが好きです。
それはたぶん「関係する」ことができるからなんでしょうね。
まぁ「人間は関係だ」と哲学者も仰ってますし。
いきなりどうでもいい内容ですが。
そういえば「そんなの関係ねぇ」という一発ギャグが流行りましたね。
その理由は、あの言葉のどこかに「解放」が見え隠れしていたからかしら、なんて思ったりしてますが、
「何言っちゃってんの?そんなの関係ねぇよ。」と笑われてしまいそうです。
そう、笑われてしまうんですよね。
なのに「関係」したい人々が沢山いるように思える矛盾。
そして「解放」とはなんなのか?・・・・
あぁ、長くなりそうなのでこの話はまたいずれ。

ところで、日本そして世界と、いや、この宇宙とも関係したくてしょうがないわたしは、
山本太郎さんや三宅洋平さんという「扉」の存在を見つけました。
そしてちょっと「関係」してみました。自分が何を求めているのかとてもクリアになったわけです。
しかし、彼らは「扉」です。その先に進む鍵はまだ見つかっていないわけで、
ひとりでは見つけられないわけで、、、
今ではもうなくなってしまったTDLのシンデレラ城ミステリーツアーというアトラクションのような
「さぁ!みんなで力を合わせて!」
みたいな展開にならないと無理なんだろうということは、よく理解しています。
けれど、人間はカラフルな生き物です。
わたしもTDLでは全く盛り上がれないように「鍵?そんなの関係ねぇ。」
と思う方々がいらっしゃることも大事なんだと思います。おそらく。

けれど、これだけは言えます。
関係すること、それは。。。

「認識すべきものを認識する」

これ、スピノザの言葉なんですが、高3の頃受験勉強そっちのけで
読んだ甲斐がありました。
そして、全然意味がわからなかった甲斐もありました。
わからないものの方が、わかったと思ったものより記憶の底に沈んでいるものですね。
今、やっとこの言葉に光が射したような気がしてます。

「わたし達を喜ばすものや、悲しませるものに気を取られて『空虚で無価値』なものばかりを見て、見なければならないものが見えなくなっているものがわたし達の知性。」だというんですよね。
その昔、本ばかり読んで知性的な女性に少しだけ憧れたわたしには衝撃です。
もはや、知性など持たない方がステキなんだと、この頃は思うわけです(違)。
あ、もともと「知性」は備わっているわけですね?
それが私利私欲で曇っていると。。。んーーー。
ちょっと飛躍(違約?)しすぎました。
勘違いですか。スピノザさん、ごめんなさい。

ともかく。。。

山本太郎さんが選挙の街宣をしていた時に、よく言っていた言葉があります。
「信号待ちをしているあなた、山本太郎のことなんてどうでもいい。
でも、この事実を知ってほしい。あなたに知ってほしい。」

わたしも同じ気持ちです。
だって「鍵」を見つけたいんですもの。
それを見つけるには、まずは「知る」こと。だと思っています。
いやぁ、それは確かに難儀なことですよ。
「関係ねぇ」と言いたくなりますよ。
「なるようになるよね」という思想の日本人には、ほんとにめんどくさい。
でも、原発なんて、あれを受け入れちゃったってことは、めんどくさがってちゃ命とりということなんですよね。
だって、「なるようにはならない」ものなんですもの。

ショーン・ペンの監督作品「荒野へ」という映画は、
自然の中で謙虚に「関係」しながらも、ほんのわずかな言葉を読み取らなかった、、、
「知る」ことを怠った主人公の姿が描かれています。
「関係する」とは、いかに素晴らしくて、そしていかに辛辣なものなのか。。。
でも、それが人間なんだとしたら、わたしはやっぱり「関係」を持ち続けたいです。
それが「調和」という言葉になるように。


前置きが長くなりましたが、山本太郎さんの全国街頭キャラバンが昨日から始まりました。
「知る」ことが出来なくなるおそれがある「秘密保全法」。
それはわたし達の「関係する」という人間の尊厳そのものも奪う法案だと思います。
昨日、わたしはライブ配信いたしました。その録画から
TPPについて、とても簡潔に説明してくださった安部芳祐さんのスピーチの
書きおこしをしてみたので
この後のブログに、紹介させていただきたいと思います。
(これから書きます。)

ライブをレコードにするのも、大切ですね。
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by normalin | 2013-09-23 17:19 | 雑記

落語。

この数年、心底笑っていないなぁと思っていて、
いや、どちらかというと人を笑わせたい欲求の方が強いのだけど
「そうだ、落語に行こう。」となぜか決めこんでいた。
震災以降、日本の膿が出てしまっている状態だしね。
いや、それはとてもいいことなんじゃないかなぁ。
この混沌とした状態こそ、人間らしいんじゃないかと思ってる。
けれど、その膿を「絆」というダサい言葉で塞ごうとしているんじゃないかとか
何かと疑り深くなっているから、こういう時こそ「笑い」でしょ、と。

落語は、高校生の頃のわたしの教祖のような存在だったビートたけしの影響で
すでに亡き古今亭志ん生師匠の落語を寝る前に聴いたり、
学生の頃に少しだけ寄席に行ったくらいだけれど、
やっぱり咄家さんの顔や身振りを見ながら聴く落語は最高でね。
けれど、どの咄家さんでも落語だったら何でもいいのか?
と言ったらそれは違うのよ。
そんなこんなで、暫く落語は聞いていなかったのだけど、、、
出会うもんだねぇ。
美容院で眺めていた『AERA』に特集されていた方で、
帰宅して早速Youtubeをチェック。
一目ぼれならぬ一耳ぼれで、すっかりその”語り”に”落とされ”
ツイッターでその咄家さんを即フォロー。
岩本町のカフェで落語の会があるというので、すぐにネットで予約。

いい時代だな。

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オリンピック真っ只中の猛暑の日。
午後7時過ぎに、カフェに着くと
オシャレで若いかわいい女の子の姿が目立ち、少し驚く。
初老のおじさんおばさんだらけだろうなんて思い込んでいたから。

前座の咄家さんに続き、いよいよだ。お囃子っていいなぁ。
高座はとても高くて、上りにくそうだった。
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そうそう、高座って言い方は仏教からきてる説があるらしい。
寺でお坊さんが説法を聞かせるのに、マジメな話ばかりじゃ皆が飽きるから
面白おかしく話したことが、落語の始まりとか。
確かに面白くない授業は頭に入らないしね。
まずは聴衆の頭をほぐしてから本題に入れば、そりゃよくしみこむだろうね。
そう、その”ほぐし方”が、この咄家さん半端じゃない。
すっかり気持ちが良くなったところで、いつの間にか長屋の風景が見えてくる。
落語はたいてい頭の弱い人が登場してくる。
「バカだねぇ、お前は。」と言いながらも、その天然ボケに付き合う人がいる。
ボケてるはずの人物が、意外と的を得ているところも面白かったりする。
おっちょこちょいの人に付き合う姿には、”生き方の余裕”さえ見えてくる。

あぁ、わたし達は本当はこんなにも他者への愛情豊かなんだよなぁ。
あの時代は、わざわざ「絆」なんて言わなくても良かったんだろうなぁ。
何が正しいとか、正しくないとか、そんなこともなかったのかもしれない。
だって、泥棒すら愛すべき姿で描かれているんだもの。

ツイッターが「バカ発見器」と言われているけれど、
現代使われている「バカ」は、だいぶニュアンスが違うと思う。
垣根のそっちとこっちで、言い合っているような意味なのかもしれない。
長屋住まいの時代の人たちは、ネットなんかなくても
きっと、もっともっと繋がっていたんだろうなぁ。
「バカだなぁ、お前は。」と言いながら、「バカ」の言い分もきちんと聞いて。

いい時代...か。


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by normalin | 2012-08-16 17:21 | 雑記

蝉が啼く、当たり前の夏に。

昨晩、バルコニーにオスの蝉が飛んできた。
網戸に停まり、猫が大騒ぎ。
獲物を狙う体勢の猫が気になって、バルコニーから蝉を出してやろうと
何度も何度も放つが、その度血相(?)を変えて、飛んで帰り網戸にしがみ付く。
あきらめて家に入ると、猫がまた腰を低くして何かに忍び寄る。
その先を見たら、取り込んだ洗濯物に蝉がいた。
啼かないところを見るとメスの蝉。
そうかそうだったのか、とその蝉をバルコニーから放った。
まだ網戸の下にウロウロしていたオスの蝉にお知らせして。
猫や、人間という”天敵”がいるというのに飛び込んできた蝉。
種の保存は命がけ。

彼らは、また逢えたかなぁ。

そう、命がけなんだよね。
人の思想と行動も、種の保存に支配されているというけれど、
その中の、恋愛や育児の他に、
同じ種の個体を助け合うという行動が基本にあるはず。
だから他を助けるという行為は、別に美談でも何でもなくて、当たり前のこと。

けれど、人間の場合「社会」というのが基盤にあるからややこしくなるのかもしれない。
そこに”適応”してゆく上で、様々な「記憶」が書き換えられ、邪魔をする。
例えば、お金やステイタスを保持してゆこうとするとき、
他を蹴落としてゆかなければならない場合だってあるかもしれない。
天敵を持たない人間は、戦争によって進化し、
種の保存を保ってきたという説もある。

けれど、人間が創りだした”天敵”は、もはや手におえない。

今、種の保存の視点から捉えれば、まさに危機的。
”負”の状況下にいるというのに、どういうわけかとても静かだし
受け入れてしまっているようにも見える。
”天敵”に対して、口をつぐんでいることが”正しい”ことのようにさえ思えてくる。
社会のルールに従っている?
それを「知的」と言うの?

わたしは今、どうも国自体が異常行動を起こしているようにしか見えない。
これはきっとエラー状態なんだと思う。
まるで麻薬の薬が切れかかっているかのような、そんな感じ。
ここで断ち切らないとオーバードーズだよ。
もう、すでにそうだったのかもしれないけれど。

「とんで火に入る夏の虫」にならないために、人間には知性がある。
これを使わないのは、どうかと思う。
いや、そもそも人間自体がエラーだったのかもしれないけれど、、、
でも、だからこそ智恵を授かった。これを駆使しないとって思う。

実に当たり前のことだけれど。

それを駆使するっていうのは、考えすぎることではないと思うんだよね。
自分の”知識”において、それは違うとか正しいとか。
あれはニセモノだとかホンモノだとか。。。
それこそ”記憶”や”肩書き”が邪魔をする。
考え過ぎない方が理解しやすいこともあるとおもう。

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蝉を、ただ”観察”するみたいに。。。

さて、蝉は来年も、当たり前に啼いてくれるだろうか...
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by normalin | 2011-08-19 23:31 | 雑記

Blue Moon

いつだったか、ダイエットを特集した番組で
部屋中を青くすれば食欲がなくなるからと
食べ物にまで青の色素を混ぜていた様子を見た。
それで体重が減ったかどうかは、わからないが
そこまでのことをするエネルギーがあったら、
もっと簡単にダイエットなんて出来るんじゃないかと思ったっけ。
何かを達成するために、回りくどいことをしてしまうのは実に滑稽だ。
けれど、わたし達は、そんなややこしいシステムの上に暮らしているのかもしれない。

それにしても、青いケーキとか、、、ちょっと”ありえない”。

今夜はブルームーン。
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ひと月に2度目の新月。とても稀な現象。
ブルームーンという言葉は、16世紀頃“非常にばかげたこと”として使われ
この“ばかげている”という意味から、
“月が青くなるなんてありえない”“決してない”(never)という意味が生まれたという。

しかしありえないことは、どんどん起こる。
社会の中でも、、、そして自分自身の中でも。
それを拒絶するだけで片付けるのは、なんてつまらないことだろう。
ただ”ありえない”からと。

経験は、時々邪魔になる。
それをアウトプットしようとするとき、
きっとどこかで”操作”してしまうような気がする。
自分を肯定するために。
その肯定は、時に、システムに組みこまれた自分であって、
他者から賞賛されたい自分であって、
そして、何より安心したい自分であって。

今、わたし達は誰も経験をしたことがない状況下にいる。
それが得体のしれない恐怖であることも否めない。
でも、だからこそ、肯定も否定もする必要がないのは
少し”楽”になれるチャンスかもしれない、と願いたい。

今日はBlue Moonだからね。
稀な日だから、稀なこと考えてみる。
でも、稀なことはそこいらに転がってるよ。
人との吸い寄せられるような出逢いだって。。。おんなじ。



ところで。
チェレンコフ光の青色は、吸い寄せられるほど美しいらしい。
こちらは、青いケーキなんかより、ずっと”ありえない”けど...


<追記>
7月は新月が2回という珍しい月でした。(満月は7月15日)今日は新月の2回目。
正しくはブルームーンではなかったですが、願いごとが叶うと言われています。

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by normalin | 2011-07-31 18:20 | 雑記

逃げること、逃げないこと。

最近、酢を使った料理が多くなった。
世界最古の医学、アーユルヴェーダによれば
酸っぱいものを多く食すと、批判的になるという。
わたしはもともとアナーキーな考えが好みであったせいか
震災から、より一層批判的な目線であったことは確かだし、
もしかすると、酢は欠乏による摂取かもしれないなどと逆説的に思いながら
今夜も酢っぱい料理を食べたくなったのを、とりあえずやめてみることにした。
何でも「過ぎる」のは良くないし。

ところで、ここへきてわたしは若い頃から興味のあった
ユダヤ人に関する本を再読している。
今までは彼らの歴史的背景にばかり気を取られ、
響いてこない部分も沢山あったものの、日本がこうなった今
彼らの生き方が、生々しく迫ってくるようになった。
危機に直面するのは悪くない。と、思う。

とはいうものの、ユダヤ人の歴史はずっと危機の中にあった。
想像するだけで疲れてしまう。
しかし、全ての五感を使い、身体全体で危機を感じ続けた歴史が、
世界的な天才を輩出してきたのかもしれない。

「渡り鳥の子3羽」というユダヤ人に語り継がれる寓話を見つけた。

渡り鳥が3羽の子どもを産んだが、寒波が襲ってきて
暖かい場所へ移動しなければならなくなった。
まだ飛ぶこともままならない子どもたち。
母鳥は、1羽だけ背中に乗せて逃げることにした。
3羽はそれぞれ次のように言った。
「お母さん、もし僕を連れて行ってくれたら僕は一生懸命働いて
お母さんを宮殿に住まわせ贅沢な暮らしをさせてあげます。」
「お母さん、もしも僕を連れて行ってくれたら、僕は一生懸命働いて
お母さんの面倒を心を尽くしてします。」
「お母さん、僕は努力はしますがどれほどのことが出来るかわかりません。
ただ、子どもが生まれたらお母さんから教わったことを子どもに伝えます。」
そして母鳥は3羽目を選んだという。

とてもかわいそうな話だが、ユダヤ人にとって「生き残る」とは
想像を絶するものだったことが伺える。
けれど、こういう寓話は日本には存在しないだろう。
日本の場合は「親孝行」話が好きだ。
そう考えると「かぐや姫」は少し異質で面白い。
可愛がって育てた子どもが遠い月へと帰ってゆくことは、3羽の渡り鳥のように
見返りを期待しないという意味だろう。

そして想像してみる。もしも、この渡り鳥の寓話を日本版にするなら
寒波の中、傷つきながら3羽を守り続ける母鳥の姿かもしれない。
それを”母性の美しさ”と涙をさそうかもしれないが、わたしはそうは思わない。
「子どもを産んでいない人は母性がわからないだろう」という人がいる。
それは違うと思う。
自分の子どもを守るのは単なる本能であって、母性ではないと。
そして、母性は子どもを持つ女性だけに備わっているものでもない。
もっと普遍的なものだと思う。

わたしは、見返りを期待しないことが母性だと考える。
この国にも見返りを期待しなければ、文句は出ない。
しかし再建したいと思うから、批判的になる。

ただ、この状況でどうしてもしてはならないのは
寒波の中、3羽の子を抱えて”共倒れ”することだと思う。
それは美しくもなんともない。
非情な決断も、また母性だと思うから。

んーー。
まだ酸っぱいものが抜けてないかもしれない。。。
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by normalin | 2011-07-05 22:30 | 雑記

長所と短所の間。

あなたのいいところって何ですか?
と聞かれ、うーん、、、と困りながら、
やっとの思いで、ひとつくらいを搾り出す。
それも疑問系で奥ゆかしく。
しかし、欧米は違うらしい。
大抵5つ以上はスラスラ言うことができるようだ。
その自己アピールが就活には必須だと、震災直前に観たテレビで特集していた。
しかし、それがこの国に当てはまるのかどうか疑わしいと思ったし
益々外国の資本に侵略されてゆくような気もした。

震災後、わたしは日本の欠点ばかりを嘆いてきた。
もちろん、中には「美しい話」もあるが、それすら
人のいい日本人はこういう話にすぐ騙されると、斜に構えていた。
怒りに支配され、焦りが全身を覆っていた。

ここ2~3日、テレビは福島飯館村の様子を流している。
村民の方々のインタビュー、家畜の様子、、、
意識しないうちに涙が流れそうになり
その度、急に台所に行き何か仕事を探す。
現実を直視できないわたしはなんて弱いのだろう。
この恐怖はどこにあるのだろう。

昨日、福島の方々が話す様子を見ていて、思い出した映像があった。
わたしの恐怖はそこからきているのだ。

高校生の頃、学校で「見せられた」フィルムがあった。
広島原爆投下後に米軍が撮影したという16ミリフィルムだ。
おぼろげな記憶だが、
そのフィルムをアメリカから返却してもらうという運動をされている方が
全国を周りながら上映しているというものだった。
(多分、これだと思います。10フィート映画
被爆した方が、一人ずつ椅子に座らされ身体の隅々まで撮影されいた。
子どもの姿もあった。
驚いたのは、とても美しいカラーだということだ。
白黒写真でしか見たことのなかった当時の日本人が
カラーで映し出されていることに、
「こんな大国と戦争をした」という無謀さが
焼け爛れた肌に、ボロボロになったあまりにも粗末な衣服に
表れている気がして、かわいそうで、、、苦しかった。

しかし一番の驚愕は、傷を負いながらも
ガタガタ震えながら、背筋を伸ばして椅子にきちんと座り、
米軍の指示通りに、まあまりにも行儀良く撮影に協力していることだった。
小学生くらいの子どもの、そのきちんとした姿勢が焼きついている。
こんな状態でも礼儀のいい”人たち”に、わたしは悲しみを通り越し
言葉では表せないような気もちになったのを思い出した。

上映前に、お話してくださった運動家の方は
「なるべく目をそらさないで観てください」と言っていたが
わたしはほとんど見れなかった。
それが申し訳ないと思うほど、その方の熱意は伝わってきたけれど。

そして今、やっとわかった。
わたしの恐怖は、この「礼儀正しさ」にあるんだということ。

穏やかな表情で話す日本人。
本当に静かな国民性だと思う。
それを絶賛する海外の方もいる。
わたしも、そう思う。

話は変わるが、ツイッターの醍醐味というのは
様々な意見が「混ざり合う」というところだ。
そして、普段自分はあまり考えたことのない事象について
論じ合う場面にも遭遇する。
が、この頃よく目にするのは「軸」という言葉だ。
「あなたの言っていることは軸がみえない」とか。
「論点」というならわかるけれど。
軸というのは、見えないものだとわたしは捉えているので
相手へ「軸」に関して指摘した途端、
こちらには指摘した人の「感情」が見えてくる。
そこがまた面白いところでもあるのだけど。

それにしても、わたしも含め、、、この国では論じ合うということに対して
不慣れなんだろうとも思う。
それはどう考えても「お上のいうこと」に従ってしまう
礼儀正しさなのではないか、と思える一面もあるから。
島国、単一民族、、、様々な背景があるかもしれないが
それは”育ちの良さ”という長所として大切にしておこう。

ところで、わたしが面接官だったら、こう聞きたい。

「あなたの長所、短所と思われるところをあげ、
その理由について話してみてください。」

短所や長所なんて実はどうでもいい部分。
理由を述べているときの、その人の「軸」を感じ取りたいというのが目的。
軸に感情は入らない。
冷たいというわけでもなく、ただの”客観性”。
そしてそれは長所と短所という‘感情‘が拮抗し合うことで
生じるバランス感覚。
そこには信念がある、とも思う。

わたしは、今になってやっと、原爆フィルム返却を求めるおじさんの
信念を感じ取ることができた。
ありがたい。

さて「礼儀正しい」という長所に、拮抗する力はなんだろう。。。
それを見つけてゆくことも、これからの課題だと思う。
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by normalin | 2011-05-14 13:11 | 雑記

コドモ と ワタシ

ワタシは、今、医療関係の職場で仕事をしているのだけど、
この間、3ヶ月の赤ちゃんを連れたお母さんが来院して
レントゲンを撮る間だけ、赤ちゃんを抱っこさせてもらったんだ。
少しグズッていたところを抱っこ。
懐かしいお尻から背中の感触、うっとりするくらい独特のいい匂い。
ワタシは少しだけ上半身を揺らしながら、話しかけ、楽しんでた。
そしたら泣き止んで、ワタシを見て笑ったの。
それを見ていた待合室の患者さんから
「あら?あなた慣れてるわね。コドモいるの?」
と言われたのだけど、ワタシはどうも子持ちに見えないらしいんだ。
そんなことどうでもいいけど、
ワタシは20年近く、子育てしかしてなかったんだなーってしみじみしてね。
そして、レントゲン室から出てきた若いお母さんに赤ちゃんを手渡すとき
胸の辺りがキュっとなって泣けてきちゃったんだ。

大変な時に子育てをしなきゃならないんだな。。。って。


実は、ワタシは今、文章なんて書きたくないほど悶々としていてね。
誰かと口論をしてしまいそうなくらい、エネルギッシュ(?)
これは本気を出してる地球からの力の影響を受けているのかもしれない、
なんて思うようにしてるけど(笑
でもね、そんな状態だからこそ書こうと思ったんだ。
書くということは、自分の立ち居地を確認できるんじゃないかって。
そう。。。
コドモを産んだあの日から、ワタシはいつも
コドモとの「距離感」を頭の片隅に置いてたことも思い出したんだ。
それはね、大好きすぎるから。
大好きなんてもんじゃないね。分身みたいに思っちゃうから、戒めのつもり。
まぁ、これは恋愛で学んだことかな。恋愛はいつだってダメダメだったけど。
「そんなのおかしいよ、お母さんなのに何で距離感なんて気にするの?」
確かにそう。ワタシはたぶん少し風変わりなのかもしれないけどね。

そんな風変わりなワタシは、高校生の頃から臨床心理士になりたいと思ってた。
けれど、希望した心理学科には進めなかった。
哲学書ばかり読んで、受験勉強しなかったからね。
でも、どかでずっと「なりたいなー。」というのがあったんだ。
だから、コドモを産んでからは児童心理学のような本を沢山読んだ。
けれど、そのうち「当てはまんないよ、どれも。」という結論になったわけ。
だって、コドモはものすごく生ものなんだもの。
それはもう、追いつけないくらいどんどん進化していく生ものなんだもの。

子育ての基礎(?)として、よく
「お母さんの感情をコドモは察知するから、平常心でいるように。」
なんていうのがあるよね。
もちろんその通りだとは思うけれど、お母さんだって感情があるんだよね。
そういうのを押し殺していたら、コドモはもっと何かを察知するんじゃない?
なんて、そんな風に思うようになってね。

データだったんだよね。心理学って。
いや、決してけなしているわけじゃないの。
ただね「他人」の行動を観察してデータをとった結果、っていうところが
少しだけ腑に落ちなくなったんだ。

そしたら「お母さんの姿」もデータ化されているんじゃないかって思ったの。
それはね、まだコドモが幼い頃タイのバンコクに住むことになった時。
あまりにも暑いから公園にも連れて行けない、
メイドさんがいるから、コドモを預けて奥様会なんていうのに出なきゃいけない、
お母さんの手料理どころか、メイドさんが食事を作ってる。。。
とかね、ワタシは「これじゃ、お母さんとして失格になってしまう。」
なんて大げさに思ったわけ。
でもね、そんなことどうでもいいことだったんだよね。
お母さんはこうあるのが正しい。
と、ワタシも刷り込まれてたんだなーって思ったんだ。
それは帰国してから、より一層強くなった。

そしてね、日本のお母さんが何だか気の毒になったの。
だって、コドモが悪い行いをするのは全て母親のせいだ、
なんていうことだらけなんだもん。
学校は学校で、決まり文句のように「ご家庭で見てあげてください。」とかさ。
ご家庭って、結局「お母さん」だよね?
あー、お母さんってこんなにやることいっぱいなの?
しかも感情は押し殺して?
やってらんないよー。
って、ワタシはいつも思ってた。

お母さん達がかわいそうだった。
勝手だけど。
ワタシ以外のお母さんは、そんな風に思ってないかもしれないけれど。

少し前にテレビで、被災したお母さんへのアドバイスとして、
ある心理学者がこんなこと言ってた。

「お母さんが恐がると、コドモはもっと恐がります。
あまり恐がらないように。」

驚いた。
こんな状況でも、こんなこと言ってしまうんだって。


だから。。。

今は、ただ、恐がってほしいと思う。

コドモの前だからといって、、、

いや、コドモの前だからこそ。


神戸の震災の後、芸人の間寛平さんが言っていたことが忘れられない。
「震災で一番驚いたのは、僕、自分だけ逃げてたんだよね。
コドモをおいて。そんなことするとは思わなかった。自分が一番可愛いんだね。」
その番組は昼のトーク番組。
皆が黙ってしまった記憶があるけれど、正直な人だな、と思った。
そして、その時、幼子を抱えていたワタシにとって
それは”母性神話”を覆す言葉で、肩の力がフッと抜けたんだ。
もちろん、間寛平さんが父親だったからだと言う人がいるかもしれないけれど、
人間の本質にせまった、生々しい感想だと思う。

けれど、”そこから”なんだと思う。
自分が一番可愛いということを知ると、やっとその”距離”が見えてくると思う。
コドモと密着する距離(愛情)ではなくて。。。

ワタシのコドモではなく、
「ワタシとコドモ」

そう考えると、距離感は無限に広がってゆくような気がする。
「自分」を拠点に。
そして「自分」を観察しながら、他へ想像を巡らす、、、
今、ワタシはそんなことを繰り返している日々。
時々噴火しちゃうけど。。。



「オペレーション・コドモタチ」 というプロジェクトに賛同しています。
何か出来ることはないか、考えています。
考えるとき、ワタシ自身も救われています。
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by normalin | 2011-04-27 22:19 | 雑記

高円寺の反原発デモに参加して思ったこと。

若い頃のわたしを今ここに連れてきたら
「何ていい時代なの?」
と目を輝かせるかもしれない。
もちろん、震災については目を覆うとは思うけれど。
ブログやツイッターに何かを書きなぐっていたんじゃないかな。
さて、これから昔のわたしに向けて書いてみようと思う。。。
何だか誰かの歌みたいだけど、
郷愁にふけっているいるわけではないから(笑)

  17歳のわたしへ。

ねぇ、あなたがやりたいと思ってたことやってきたよ。
何だと思う?
デモ。
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ツイッターというのでデモを知ったの。
スゴイでしょ?今はこんなツールがあるんだ。
ひとりで参加したわ。
やっぱりひとりで行動することになってしまうのは年をとっても変わらないね。
いや、厳密にいえばひとりじゃないんだよね。
だけど、そこには様々な思いの人がいて、
わたしとしてはもう少し色んな人とお話できるんじゃないかなと期待もしていたんだけど
数人に話しかけてみても、どうも盛り上がらなかったわ。
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そう、おとなしい感じの人が大勢いたし
いわゆる顔見知り以外の人は寄せ付けない空気もあるんだよね。
あなたが今よく言っている「塀」ってやつかもしれないな。

高円寺といえば、うちの先祖のお墓があるところじゃない?
お墓参りの後は必ず、あの商店街でご褒美に何か買ってもらったよね。
甘くていい思い出が詰まっている商店街だったから
「やっぱり商店街の人達も承諾してくれているんだ」と思って参加したら
実はそうじゃなかったみたいなの。
それにはわたしも驚いたけれど、もっと驚いたのは
あなたが「すてき!」と思うだろうネットの中での、ものすごい非難なの。
まるでデモに参加した誰もが「犯罪者」扱いなのよ。
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デモ参加者は、バカの集まりみたいに書かれているの。
まるで鬼の首を取ったみたいに楽しそうに悪口を書いているわ。
そういうのを眺めてたら、何だかその人たちが気の毒に思えてきたの。
この人たちは本当は怖くて仕方ないんじゃないかなって。

デモではプラカードなんか必要になるじゃない?
その中には、東電に騙されてたとか、そういうたぐいの言葉も見たの。
本音を言うと、わたしはそういう言葉には同意できなかった。
反原発デモに参加しているのにね(笑)。
とりあえず、原発について真剣に考えてます、という軽いノリだったんだ。
怒る?いいよ、怒って。
そう、わたしは自分に怒ってたのよ、震災があってからずっと。
あなたが今せっかくいろいろと考えているのに、すっかり視野が狭くなってたんだ。
考えることもやめてしまっていたかもしれない、とね。

あなたが読んでいる、日本がしてきた戦争の「裏」の本で
あなたが疑問に思い、憤っていることが今リアルに起こっている状況なの。
どう?悪くないと思うでしょ?
騙されたとか、そういうことじゃなくて、もっと深いところで
みんな、どうしようもない焦りを感じているかもしれないわ。
そのひとつがデモという行動に表れたとも思えるの。
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けれど歩いてゆくうち、だんだん夢の中に入ってしまったような感覚になったのよ。
自分の思いがどこにあるかもわからなくなってしまったの。
そしたら、高円寺町内のおじいさんが
「迷惑だ!自分たちの家の前で騒げ!」と怒鳴ったの。
そのときに「塀」を思い出したんだ。
日本は塀に囲まれた家を持っているけれど、
それでパブリックとの境界を保っているんだってこと。
まぁ、今じゃ塀のある家も少ないけれどね。
だからおじいさんの言わんとするところは
「自分たちの塀の中で騒げ」ということなんだろうね。
塀を越えたら「迷惑」なんだろうね。
けれど、それって言い方を代えれば塀の中のことについては理解を示すけれど
塀を越えた時点で理解なんかしてやんないぞ!ということにもならないかな?
そして、夢の中にいるようになっちゃったのは、もしかしたら
わたしもデモという「塀」の中で一瞬ヌクヌクしてしまったのかもしれないね。

震災の前にはね、あなたが想像もしないようなジェットコースター並みの
経済の高揚と落ち込みがあったんだ。
それから経済は冷え込んで、終身雇用制度を前提としていた
日本の企業神話だってもうないの。
それなのに、それほど深刻な感じはしていなかったわ。
ほんとならデモが起こってもおかしくなかったかもしれないのに。

どうしてだろうね?

社会って、”繋がって”いるはずなのに「企業」という「塀」に囲まれて
見えなくなっていたのかな?
今ね、事故を起こした原発を抱えている東電が槍玉に上がっているんだけど
あそこも大きな「塀」なんだよね。
あの中にいる人全てを悪者にしているような風潮があるけれど
非難している人たちだって、、、(わたしもそのうちのひとりだろうけど)
それぞれ「塀」の中で、その中に”合う”ように
”自分”を作り上げてしまっているから、
ただ「騙された」と文句を言っているだけのように思えるし
文句を言われている方も「たまたまウチの会社がこんな事故に遭ってしまった」
なんて、お互いが根拠のない自己肯定をしているようにも見えるんだよね。

だから、やっと見えてきたんだよ。
今までが、いかに膠着状態で、思考すらパターン化されていたこととか
死の前提で生きてるんだってこととか、、、
「当たり前」のことを忘れていただけなんだろうね。

デモに参加していた人の中にね
「今まで(原発について)何も考えていませんでした。ごめんなさい。」
というような内容のプラカードを下げていた人がいたの。
わたしも同じだなぁと思ってグサッときたんだ。
そう、あなたが今憤っている
「考え、論じることを取り上げられている」のが日本なんだよね。
謝りたくはないけれど(笑)これから本気で考えようと思ったんだ。

あなたはそのうち「塀」に嫌気が差して
半分移住する気でアメリカを旅することになるのだけど
やっぱり日本という地に足をつけようと帰って来るの。
グラグラしていて、地震酔いをしている毎日だけど
やっぱりわたしはここでよかったんだと思ってる。
この一ヶ月、いや、遡ればこの3年間くらい
わたしはずっと「設定外」の場所を漂っているような感じなの。
だから自分を肯定も否定もしない勇気が出てきたところ。
デモに参加したのはね、
「自分を主役」にしたドラマに出演したということかもしれないな。

なんてね、こういう言い方をするとネットという場所は
すぐ叩かれるのよ(笑)
けれどそういう人は、他人の中でしか生きる糧を見出していないのかもしれないね。
さっき「気の毒」と言ったのは、そういうことなんだ。
いや、日本のほとんどの人たちがそういう生き方を
知らず知らずに強制されてきたのかもね。
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デモに参加してから、少しずつ怒りがおさまってきたのよ。
大声も出してないのにね。
身体を動かしたということが良かったのかもしれないな。
自分で「行動」して、それを「見つめ」「思考」するという”繋がり”が
日本に欠落していたのかもしれないなぁと思ったよ。
だから地震に対して「想定外」なんていう言葉が出てきちゃうんだろうね。
こんな事になるとは思いもよらなかった、なんて言い訳しちゃうの。
恋に落ちるのも想定外なように、人生なんて想定外だらけ。
でもそれが「自然」ってもんじゃない?

あぁ、話がずれた(笑)

最後に、 、、
デモについて、こんなにもいろいろと語られたということは
皆が考えるいいきっかけにもなってるよね。
やっぱり行動(行為)は無意味じゃない。って思ったよ。
比べ物にはならないけど、ガンジーのハンガーストライキも、
マザー・テレサの病人の手を握り看取る行為も
そのときは非難されていたものね。
バカらしいって。。。

うん。わたし、バカになることにした。
こんな結論で、ごめんね(笑)。
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by normalin | 2011-04-15 00:32 | 雑記

ウランの光

わたしは、今、とても怒っている。
自分でも気付かなかったけれど。
「この”今”を、ありのままを”見る”」というヨガを毎日しているというのに。だ。
同僚から「元気がないね」と言われ、気付いたところ。
そう、元気がないのは怒りを隠そうとしているからなのだろう。
元気のないわたしに周囲はとても優しい。
「あなたのことが好き。」とメールで告白もされた(笑)。同性の方だけど。

しかし、どんな怒りなのかそれがわからない。
だから、書こうと思った。
本当は、こういう場所には気持ちが落ち着いたら書くべきなのだと思っていたけれど
そんな時間がいつやってくるのかわからないし、
今、この瞬間の自分の気持ちを文字にすることは意味があると思った。

わたしは、あまり感情を出せない人間だ。・・・だった。
環境がそうさせたとか、そういう話は今ここではするつもりはない。
けれど、閉じていた心が開いていったのは音楽だった。
初めて買ってもらったシングルは山口百恵の『ひと夏の経験』。
また、イルカのアルバムとABBAのアルバムのどちらにしようかと悩んだあげく
ABBAのアルバムを買ってもらい、中学生の頃からどっぷり洋楽にはまっていった。
洋楽の歌詞にはわからなことが多い。
それを調べ、ライナーノーツの解説に出てきた本などを読んでゆくうち
わたしは日本人がどうして、社会的な歌を歌わないんだろうと思ったものだ。
いや、歌っていた人はいる。
けれど、ヒットするのは恋愛ものばかり。
日本って平和なんだと思った。
けれど、何かが物足りなかった。
美しいだけに思えた愛の歌だけでは・・・。

中学生の頃、公民の授業の始まり、だったと思う。
先生が「何でもいい。疑問に思うことを書いて。」と言ったので
わたしは「日本は被爆国なのに、どうしてまた原爆と同じ方法で電気を作っているのか?」
と書いた。原発という言葉がわからなかったからこんな書き方をしたと思う。
また、そのシステムだってよくわかっていなかったし。
先生は特にそれを発表しなかったので、質問しに行った。
けれど、先生が困ったような笑みを浮かべているうち
他の生徒達が押しかけたことで何の回答も得られなかった。
いや、何か言ったのかもしれないが。

その曖昧な表情をもう一度別の先生に見ることになる。
それは第二次世界大戦の本を読んだときのこと。
どんな本かというと、日本が様々な国で行ってきたことについて書かれたもの。
読めば食事も摂れなくなってしまうほどの内容だ。
戦争はただただ悲惨で悲しいなんてもんじゃない。人を簡単に狂わすのだ。
わたしは担任の先生に
「どうして、こういうことが教科書に書かれないのか?」と質問したが無言のままだった。

教科書に書かれていることなんて、ほんの上澄みに過ぎない。
いや、上澄みどころかどうでもいい内容ばかりに思えた。
くだらない。
真実を教えない教育なんて、なんて不親切なんだ。
と思ったとたん、わたしは受験勉強そっちのけで哲学書ばかり読むことになった。
もちろん、わたしの人生の上でそれは”レールを外れた”瞬間だったのだけど(笑)

ただ、怒っていた。
怒りながら本を読み、音楽を聴いていた。
どうして、こんなに大切なことを知らないのだろうと。
親も、そして周りの人も。
いや、知らされていない、ということに。
けれど、口にしてはいけないんだと思った。
そういう国なんだと。
そう感じてから、とても居心地の悪い場所になった。

海外のアーティスト達は、来日するたび口を揃えて
「キレイで、親切な国」だと言う。
わたしも、そうは思う。
だが、この言葉を耳にするたび身体のどこかが”ざわざわ”した。
汚いものを隠すことが上手なのでは?
本当に親切・・・?と。

ここまで書いてもイマイチ怒りの根源がわからない。
ただ、思い出したことがある。

20数年前、とある店で「ウランガラス」というものに出会った。
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ウランと聞けばあの恐ろしい核。
グラスの前には「身体に及ぶ危険性はありません」とあった。
ロシア製だったと思う。
あまりにも美しくてしばし見とれた。その場を離れられなかった。
が、しかしそれを手に取ることは出来なかった。

話は違うが、核が分裂する光はとてもキレイだそうだ。
「あの光は何だろう?」と吸い寄せられた原発作業員が被爆したという話を
ずい分前にどこかで読んだ記憶がある。
ウランガラスは、ヨーロッパが発祥だ。日本でも作られていたそうが
第二次世界大戦を境に製造は終わったとのこと。
それは原爆が投下されたからだろうか・・・。
どういう理由かはわからないにしても、
あの時から日本は何かを封じることに力を注いできたようにも見える。
それを「美」という曖昧な表現に変えて。

そうだ。

わたしも同じ。

怒ることは、とてもエネルギーが要る。
それを封じなければ日々がしんどい。
どうやったら怒らなくて済むかということばかりを考えていたかもしれない。
周りを見ながら、、、自分の受け取られ方ばかりを気にしていたかもしれない。

そんなのもうやめよう。
時間がない。

表面的な「美しさ」は目が眩み、強そうだが「毒」がある。。。
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陽子はプラスの性質がある。
プラスとプラスは反発する。
それが抑え込まれて、原子の中心に集まる。
この反発力よりはるかに強力な抑える力が『核力』。
陽子が入れば入るほど、核力も大きい。
陽子がいっぱい入ってる「ウラン」の核力は、最強。

だが、本当の”美しさ”なら、もっと最強なはずだ。
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by normalin | 2011-04-04 20:45 | 雑記

さようなら

近頃の卒業式では「仰げば尊し」を歌わない学校が増えてきているとか。
その理由として、、、巷では
「先生が生徒に感謝の気持ちを押し付けるのはいかがなものか?」
ということがあるらしい。
確かに感謝をしろと強制するのはおかしいが
そこまで大げさなものなのか、と、この歌を当たり前に歌ってきたわたしは思ってしまう。
「いざ、さらば」
の部分は、涙でほとんど歌えなかったけれど。

今日は息子の卒業式であったが震災の影響で取りやめになった。
先週、帰宅できず学校で一夜を過ごした息子にとっても納得の状況。
あれから一週間。誰もが長い七日間を感じたことだろう。
先週のその時間、わたしは娘と家に居た。
扉を確保しつつ、テーブルの下にもぐっていたという娘と
「これで別れることになるかもしれない。」と、大声で娘の名前を呼んだ。
その時「さよなら」と言ったほうがいいかなと、思いつつ。。。
今となっては大げさな話だけれど。

地震。。。
わたし達は幼い頃から、この自然の持つ力を身をもって体験してきた。
そしていつか大地震がやってくるのだという恐怖を
「まだ、だいじょうぶ」と騙し騙しやってきた。

日本人は大昔から自然の猛威と恩恵の間で生きてきた。
優しく穏やかな恵みをもたらしてくれたその直後に、全てがさらわれてゆく。
そんな歴史を繰り返してきた。
もちろん、強い、と思う。
しかし、自然を人間に置き換えてみるならどうだろう。
頼るべき優しい人が急に牙を向く。
こんなに辛い矛盾に対処するには、それを見て見ぬふりをする、
いわば錯誤の状態にしておけば楽になれると考えたとき
災害の度に立ち直ってきた日本人の”強さ”は
「あきらめる」という意識が潜んでいるように思える。
「さようなら」にも似た感覚。
中国語の「再見」ではなくて、
英語の「Good Bye」でもない。
しかし、これは昔の話。
現代は自然と向き合っているだけではない。
今回の震災では、人災ともいえる原発事故が起こった。
今までの”強さ”だけでは無理だし、あきらめることも出来ない、してはならない。
現実を直視することがわたし達に求められている。

秩序正しいといわれる日本人の姿は、海外でも感心されているが
長所と短所は同居するものだ。
”スレてない”日本人はきっと純粋だろう。
けれど疑問を抱かず、ただ根拠なしに「だいじょうぶ」と、
毎日”キチンと”やり過ごしてゆくことだけに従事するのは、
もはや地球規模の罪になるかもしれない。

だからこの機会に「さようなら」を言わなければならないと思う。
これまでの錯誤の上に立つ”強さ”に。

「さようなら」は「そうであるならば」という接続詞が語源だ。

そうであるならば、、、

と続く未来はこれからわたし達、ひとりひとりが引き受けなければならない。
周囲との足並みを崩さないような強さではなく
崩してゆく”強さ”も必要になる、と思う。
そこに「秩序」が加われば最高だ。

そして、見て見ぬふりをしてきた「強制」にも、
さようなら、、、
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by normalin | 2011-03-18 22:50 | 雑記