カテゴリ:YOGA( 15 )

映画「A2-B-C」を観て~ヨガ的視点から~

久々の更新です。
頭でぐるぐるめぐらせていることを文字にするということは
自分を客観視するうえでも大切と「書く」ことに目標を掲げたものの、
このありさま。。。
続けることが、いかに難しいものかと痛感します。
けれど、一方で続けることがどれだけ力があるかを体感していることもあります。
それはヨガの練習かもしれません。
一言でいえば、ヨガは自分の身体を使いながら、その身体を客観してゆくことで、
心を穏やかにしてゆく練習をします。
近頃、気持ちが変化する直前に、自分の呼吸が乱れ始めることに気づくことがあります。
とはいうものの、ほとんどは“気持ち”に流され、穏やかとは正反対の状態になっているのですが(苦笑)。
しかし、わたしはたぶんそんな自分の「気持ち」にさえ無視をして生きてきたと思うので
「あ、今こんな気持ちになったんだ。」ということを観察できるということだけでも
ヨガがもたらしてくれた副産物に感謝をしています。
余談ですが、ヨガはその気持ちについても「いい」「悪い」をジャッジせず、
気持ちより「今起こっていること」に意識を向けてゆくのです。
(そもそも気持ちはあっという間に変わりますし、何かの影響ということもあるので、いい加減なのものかもしれないですね。)

おかしいですか?
自分の気持ちがわからないなんて。
でも気持ちを「封じこめる」という作業をしたことはありませんか?
「今、こんな風に思ってしまった自分は、よくない人間なんじゃないだろうか?」とか。
たぶん、知らずに自分を罰していることがありますよね。。。
しかし、それをしているのは「本当の自分」なのでしょうか??

それにしても「気持ち」と連動する呼吸の乱れ、また「呼吸」の乱れが血流さえ変えてしまっているような身体の変化に、時々ゾッとします。
ストレスとは、このようにして知らぬ間に蓄積してゆくものなのかと思います。

昨日「A2-B-C」という映画を観ました。
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昨年から観たかった映画です。
観たいというより「観なければならない」と言う方が合っているかしら。
断片的に、ネットに上がっていた動画を観ていたし、この3年の間、自分なりに想像を膨らませていたから、かなりの覚悟をもっていたつもりです。
が、冒頭からずっと息苦しくて呼吸が乱れました。
呼吸を整えようと深呼吸をすれば、吐く息の時に涙が出るの繰り返し。
それは生身の子どもの姿。子どもの生の声。そこから発せられるありえない「言葉」の数々でした。
そこにいるお母さんたちは、とても冷静にすべてを見つめていました。

ところで、わたしの子どもは、二人とも通院しなければならない病と障害を抱えています。
子どもの身体のことについて詳しくなってゆく過程を振り返ると
「自分はこんなに勉強ができたのか。」と思えるほどの集中力だし(言い過ぎ)、なんといっても
「勘」が働くものなのです。これは数値に表されるような理屈ではないのです。
しかし、映画の中で、お母さん達の「勘」を踏みにじるような”対応”があからさまになっています。
原発事故直後、これについてはネット内でもお母さんを蔑むような言葉を目にしました。
(その中には、残念ながら政治に携わる方もいらっしゃいました。)
「子どもを守りたい」
という当たり前のことが困難であるなんて。
映画では、その土地ならではの「人間関係」というものへの示唆もあります。
これはどこにいても、わたし達が直面する一番の問題なのかもしれませんが。

「放射能」という言葉を使わないようにする空気もあります。
「原発」という言葉を入れただけで、ネットから削除されるという噂も聞いたことがあります。
どうしてなのでしょう?
もちろん、わたしも肌で感じてはいます。

わたしはそんな「空気」を感じることこそが一番恐ろしいと思います。
「いい」「悪い」をジャッジしているのは誰ですか?
また、そんな「空気」だと捉え、感じているのは誰ですか?

こうして書いてきて、わたしが映画の上映中ずっと苦しかった理由がわかりました。

「この空気」です。

今、起こっていることはなんですか?

ただ、それだけなんです。
それだけのことに、どうしてこんなにも困難が付きまとうのでしょうか。

この映画のタイトル、「A2」「B」「C」は、甲状腺に発生した嚢胞(のうほう)や結節(しこり)の大きさに応じた検査の判定結果のことを言います。
聞きなれず難しいですが、監督があえてこのタイトルにしたのかがわかるような気がします。
ただの「観察記録」だからなのだと思います。
しかし、その観察記録ににじみ出る監督の「人間」への愛が感じられます。
原発事故に目を伏せて、ひたすら応援するような薄っぺらい愛ではなく、もっと深い愛です。
また、このような事故がなければ、ふつうのお母さんが「A2」「B」「C」などという専門的な言葉には一生触れなくてよかったはずです。
そんな皮肉めいたことも、感じました。

ところで、観察ということが「科学者」の定義なのだとしたら、ここに出演する母親はみな科学者です。
冒頭に出てきた学者の方よりも科学者でした。
けれど、苦しいですよね。
それを「報告」すらできない「空気」なのですから。
これは日本に限った話ではないようです。
ある漫画家さんについて大騒ぎしている大人たちのことを子どもはどう思うのでしょうか?
ただ「報告」をしただけで、こんな状況になることについてどう思うのでしょうか?
本当にみっともないことだ思います。

ヨガの話に戻りますが、ヨガにはチャクラというものがあります。
チャクラの数は会陰から脊柱を通り頭頂部までの7個。
それぞれが掌るといわれるものを、下からざっとあげてみます。
生存~願望~意思~愛~自己表現~智恵~高い意識(霊性)
甲状腺の部分(喉)は、自己表現にあたります。
子ども達が、どうか、自分たちの表現を失うことのないように、
また、子ども達が自由に自分を表現できる未来であることを祈ります。

祈る。
は、わたしの中で意識です。

穏やかな呼吸を続けることが出来るように、意識しながら...

マットを離れても、ヨガってできるんですよ♪
簡単でしょ?
この世の中を、複雑かつ窮屈にしているのは、わたし達自身なのかもしれないですね。。。
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by normalin | 2014-05-11 17:31 | YOGA

静止の中の動。

わたしは、10代の頃からマリリン・モンローが大好きだ。
今年は、没後50年だという。
モンローの魅力の虜になったのは、おそらく洋楽だと思う。
アーティスト達が時々、モンロー好きを語っていたから。
楽曲の中に登場するモンローは、わたしにとっても女神のような印象になっていった。
彼女はすでにこの世にはいなかったから、わたしの中ではまさに”永遠の人”。
だから没後何年経ったとか、そんな数字が陳腐に思えてくる。

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10代といえば自分の姿があまり見えていない、というより
「この人になりたい」と純粋に願えるステキで、同時にイタイ時期だ(笑)。
わたしは、まずモンローの眉のディティールに魅了され、
自分の眉が彼女のような美しい曲線を描くよう
母の鏡台からくすねた眉ブラシで、毎日ブラッシングしたものだ。
そのうち、骨格からして「違う」ことを認識し、落胆という大切な経験をしたものの
今でも、あまり時間をかけない化粧の中で眉にかける時間は大きいし、
人を見るときも、まず眉に視線がいっているようだ。

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ところで、動くモンローを初めて観たのは、あるバンドのPVだと思うが
そこで感じたのは、モンローの”ぎこちなさ”だった。
その後、彼女の映画を観るにつけ、どうしても同じ感想にいたってしまう。
写真集を何時間観ていても飽きないのに、
なぜそう思ってしまうのかがわからなかったが
そのうち、モンローの眉の動きにばかり視線がいっていることに気付いた。
眉の不自然な動き。
彼女の必死な演技がそうさせているのか、とにかく力が入り過ぎている。
あんなに魅了された彼女の眉なのに、わたしはそれが気に食わなかったのだ。
写真を見過ぎた結果、動く彼女を追うことに違和感を覚えてしまったともいえるけれど、
モンローの写真は、とにかく想像がかき立てられる。
彼女を取り巻く風の香りまで身近に感じることができるのだ。

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どうしてだろう?

彼女の演技についてあれこれ言う気はないけれど、
映画は、大勢のスタッフが見守る中でワンシーンを何度も撮影するだろうし、
共演者という存在もある。
それがモンローの眉に力がこもる要因になっていたとしたら、、、
自分が迷惑をかけてはいけない
と思う気持ちがそこにあったとしたら、、、なんて想像してみる。

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彼女についての様々な著書には、たいてい「繊細」「孤独」という言葉がつきまとう。
わたしはその表現が好きではないし、そう思ってはいない。
それはどの人間に対してもいえることだし、彼女の死を弄ぶ
”生きている人間”の自己満足にしか聞こえないからだ。
けれど、彼女が愛情溢れた人であっただろうということは想像できる。
カメラのレンズに向かっては、とても無防備だったのではないかと思うから。。
その子どものような無邪気な彼女の笑顔に、わたしはゾッコンなのだろう。

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ヨガのアーサナでは、よく「眉間の間を広くして」と意識を促す。
その度、モンローの眉を思い出す。

子どものままでいいんだよ。って。

無防備でいいんだよ。って。

そうしたら、静止したままの状態でも、わたし達は内側に大きな動きが感じられるはず。

まるで、モンローの写真みたいに...

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by normalin | 2012-08-12 17:18 | YOGA

写真。

子どもが生まれて、写真やビデオを夢中で撮った。
それを見ることが出来なくなってしまう日など、想像もしていなかった。

娘と息子は、今、難病と共にある。
薬などほとんど服用しなかった娘は、大量の薬を飲んでいて、
その副作用と痛みから、寝たきりになることも多かった。
走るのが速く、体育だけが得意だった息子は、
学校の行事で、大腿骨頸部を骨折し、骨はついたものの、
壊死となってしまった。加えて、ネフローゼ症候群にかかり
現在、ステロイド剤を飲んでいる。
ステロイド剤が、多くの恐ろしい副作用をはらんでいることは良く知られているが
その中の大腿骨壊死という言葉は、わたしを寝かせてはくれなかった。

子ども達はなんて気の毒なのだろう。

そう思う度、胃の辺りがキュっとなり、息苦しくなった。
こういう時は、涙など出ないものだとも知った。

ご近所の方は「お子さんはどう?」と、涙を流しながらわたしの話を聞く方も多かった。
もちろん、共感をしてくださっているのかもしれないけれど、
わたしにはその涙が時々不思議だったし、共感というよりは
きっと遠い遠い話を聞いている感覚なのだろうと思った。

そう、遠い話なのだ。

そしてそれは、わたしが子どもに対して「かわいそう」だと思うことと同じ。

ある人に「代わってあげたいでしょう?」と言われたが、その時
「それはできないわ。」と即答していた。
もちろん、代わることなどできないことを前提としているのは承知の上だったし
「そうね、代われるものなら、ね」といえば、会話はスムースに終わっただろうけれど
わたしは、時々こんな風に話の腰を折ることがある(笑)。

しかし、あの時、わたしは気付いたのだと思う。
子どもの痛み、いや、子どもだけではない他者の痛みを共有することなどできない、と。
それも、勿論知っていたはずだけれど、心からそう思えた。

数年前のわたしが、このくだりを読んだとしたら
「なんて、冷たいの?それでも母親?」と激怒したかもしれないが、
この数年、子どもの病と共に生きてきて、やっとここまでたどり着いた。

わたしが想像する彼らの”痛み”は、やはり想像でしかなく、
その想像が彼らを知らずに追い詰めていることだってあるかもしれない。
それを「母親だから」と見過ごしてしまうことの方が、わたしは気にかかる。

子どもを産んでからというもの、世の「母性」という言葉の乱用に辟易していた。
しかし、わたしはいったいどこにウンザリしていたのかがわからなかった。
おそらく、母親というただの人間を母性という神聖なものに置き換えて
その子どもであるただの人間の人生を
”我が物”にしているようなニュアンスが嫌だったのだとわかった。
これは、たぶん、わたしの歪んだ受け止め方なのだろうけれども。

子どもはわたしを通ってきたに過ぎないのに。

母性は、自分の子どもだけに与えるものではないはずなのに。

「ツリー・オブ・ライフ」という映画の中で、わたしはある言葉に救われた。
子どもを事故で失った母親の苦しみを描いた場面での、
「子どもを守ることはできない」というセリフだ。
今でも時々心の中で呟く。
逆説的に聞こえるが、これが「母性」だとすら感じる。
それだけ辛辣に、そして、優しくわたしに響いた。

そこには、わたしにとっての「許し」が、あった。

わたし達は、力ずくで何かを守る日々なのかもしれない。
幻のような何かを。

それをやめてしまったらどう?

我が子を守ることは、当たり前だ。
けれど、それにばかり必死になってしまうと、子どもが見えなくなってしまうかもしれない。
子どもを見つめるため、わたしは”共有しようと努力する”ことをやめた。
そうしたら不思議なもので、何かが変化してきた。
わたしの目線が、子どものうしろ姿に行くようになったのだ。
そう、彼らの背中へ。

彼らが逞しく思えた。

今日、PCに送られていた、まだ幼い頃の元気な子ども達と写った写真を思いがけず見た。
とても久しぶりに。。。
わたしは、あまりいい表情をしていない。
今の方がマシかもしれない、と思ったら、少し勇気が出た。

幻影のような写真を整理しよう。
ほとんどを捨てることになるかもしれないけれど、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
存在を忘れてもいいくらいの適当さで。
そうすれば、”瞬間の共有”に、敏感に反応できるかもしれないから。
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by normalin | 2012-04-29 22:10 | YOGA

one by one

今まで、平然とこなしてきたような日常がここへきてかなりしんどくて
毎日、どうしたら「楽」になれるんだろう、、、
なんてすっかり弱気になっている状態。
けれど、こういう気持ちになると様々な「言葉」が浸透してくるのも事実。
だから、どんなに瞼が重くなっても、必ずこれを読んでいる。

不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話

ポール ブラントン / ナチュラルスピリット



これは対話形式で書かれていて、毎日やっと2~3の質問への答えを読んでいるから
なかなか進まないものの、すでに数十冊の書物を読んでいるような気がするし
今まで読んできた書物が、、、
いや、探し求めてきた「言葉」が、網羅されているようでもある。

若い頃は特に、誰かと急速に親密になればなるほど
必ず、恐怖が付きまとっていた。
本当は一人旅は好きではなかったのだろうけど
逆に一人になることで、その恐怖から逃れることができるかもしれないと
わたしは一人で旅に出た。と思う。
海外であれば、余分な「言葉」など耳にしなくていいと思ったし。
確かに余分な言葉どころか、それ以前の問題であったので
結果、頭の中で過剰な「言葉」が駆け巡ることになってしまったのだけど。
それを何かに書きつければよかったのかもしれないが
その当時のわたしは、アウトプットをそれほど重要だとは思っていなかったのだ。
だから「言葉」の流れは滞ったまま、過剰な「言葉」を身体の片隅に残したまま
いわば、無視をし続けて時が流れた。

無視をし続けていることで、オトナになれたような気がした。
気がした。。。
とは、今現在のわたしの感想。
少し前まで、わたしはオトナなのだと思いこんでいた。
無視は、少しだけ”楽”な気持ちを運んでもきたから
このまま静かに過ぎてゆくのが人生なのだろうと思っていた。
半ば、強制的な静けさの。

けれど、無視の代償は大きかった。
身体にも支障をきたしたし、若い頃よりも数十倍の疑問が沸き起こった。
疑問とは「わたしは何故ココにいるのか?」というものだ。
オトナがこんなことを言えば
「バカじゃないの?」となる疑問。

しかし、わたしはあの一人旅の当時
その疑問に容易く答えていたはずだ。
「生きるため」と。

けれど、今は少し違う。
「この世を去るため」と思うから。
いや、どちらかというとその方に重きがあるような気がする。

今まで確信していたことが、覆されようとするときは
きっと不安定な状態になるものなのだと思う。
YOGAでバランスをとるはずが、実は今こうした気持にもなっている。
膿を出している状態とも思うけれど、そんなものではなく
まるで、身体と脳がバラバラになっているような感覚だ。
けれど、そのおかげで「隙間」ができつつあるかもしれない。
そこに「言葉」が沁みこんでいっているのだとしたら
これはしめたもんだと思う。

ところで、先週土曜日、昨年12月にYOGA学校を卒業した仲間との新年会があった。
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卒業記念に頂いた、卒業演習が録画されているDVDをかけ
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

オリジナルTシャツを作ることになったのだが、それを決めたり
また、チームの名前を決めたりもした。
チームの名前は投票の結果、わたしの案に決まったのだが、
この数日、わたしはずっと「言葉」を考え続けていた。
書物からではない「言葉」について。
とても楽しかった。

チーム名は"one by one"
ひとりひとり。ひとつひとつ。。。という意味だ。

仲間は、一緒にいて楽しい。
親密になった人と、時間を共有することはこの上ないほど嬉しい。
しかし、私たちは必ず「ひとり」になる。
ひとり+ひとりが、融合して化学変化をするようなものだと考えれば
親密になることへの恐怖なんてなくなるだろう。
だから、やっぱりあえて「ひとり」になりたいと思う。

恐怖から逃げるために「ひとり」になるのではなくて
今、この近くにいる人のため、
大好きな人のために。
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by normalin | 2011-02-07 16:02 | YOGA

クリスマスの日に火を灯す。

昨日、わたしはYOGAのワークショップなるものに初めて参加した。

Nao先生X'masスペシャル「聖なる火を心に灯す」~アグニマントラを使ったフャイヤーメディテーション~
【内容/Contents】 
このワークショップは、聖なる火AGNIのマントラを唱える事と簡単な動きを使って、心を静め、その澄んだ状態の心に聖なる火を灯すプロセスを行います。
ワークショップの前半では、滞った気を取り除く呼吸法や、体を活性化させる簡単な動きを使って、穏やかで目覚めている心身の準備をします。後半は、聖なる火AGNIを讃えるマントラを使って、私たちの心の中にその火を灯していきます。それぞれの心の中に、聖なる火が宿った後は、その恩恵を世界に祈りと共に届けます。
クリスマスの日に、一番素敵なプレゼントを送るとしたら、それは、私たち一人一人が自分の心に暖かい光を灯すことで、周りの全てにその光を届けることではないでしょうか?


Nao先生は、TTの『ヨーガスートラ』の講義でお世話になった。
その”面白さ”と、マントラを歌う本場仕込の発音とその迫力ある声に
すっかり魅了されていたので、すぐに申し込んだ。
最近、わたしは寝る前に『ヨーガスートラ』の解説書を少しずつ読んでいる。

現代人のためのヨーガ・スートラ (GAIA BOOKS)

グレゴール・メーレ / 産調出版


ワークショップの前日、その本に「ネルソン・マンデラ」の名前が出てきて
高校生の頃、彼の演説に感動し、その英語を丸暗記したことを思い出した。。。
当時は、U2が大好きで彼らがマンデラ氏に捧げる歌を歌っていたことも
ついでに思い出しながら、今自分がこうしてYOGAと関わっていることの
不思議な気持ちを感じていた。

ワークショップが始まる前、Nao先生は「葉っぱ」に火をつけ、
その葉から立ち上る煙を丁寧に室内に巻いていた。
それは、ネイティブアメリカンの「聖なるパイプ」にも通じている「浄化」の儀式。

そして、厳かに始まった。
冒頭、Nao先生がネルソン・マンデラの言葉を読んだのには驚いた。
アメリカを一人旅した昔の自分の姿が浮かび
ただ、ただ、何かを求めていたあの頃の自分を
抱きしめたい気持ちになる。。。

ところで、TTが終わってからというもの、わたしはほとんどアーサナを練習していなかった。
気が向いたときに一つか二つのアーサナで身体の調子をみるくらい。
それが良かったのか、昨日のアーサナは身体の「毒素」が
思う存分出たような気がする(笑)。
そこに汗をかく激しさも何もない。
ただ、吐くことに集中して身体の中の毒を出してゆく。
「浄化」という言葉を体感する。
気持ちいいというより、そこにあるものは
自分自身ではない「身体」。
軽くて、小気味いい「身体」。

ろうそくに火を灯し、円陣をつくって火を見つめる。

「まず、火に感謝をします。」

火に感謝なんてしたことがない。
とりあえず、時には嫌々ながら作る食事の支度を思い起こしてみる。

「火を身体の中にどのように灯したいのか、明確にしてみてください。」

明確に。。。
これはわたしにとって難しい。
わたしは、普段とても曖昧に物事を考えているから。
「穏やかな火を灯したい」
と願う。

火に向かって両手を差し出し、マントラを1回唱え
チャクラと呼ばれる、身体の芯の部分に
その火を灯すようにイメージしながら、両手を身体のその部分に持ってくる。
7つのチャクラ全てに、それを行う。

そして、いよいよ、ハートに火を灯す。
低めの声でマントラを12回唱えた。
何のことは無いと思っていたわたしは、下腹部に熱さを感じ
マントラを唱えながら、涙が落ちた。
悲しいのでも苦しいのでもない。
ただ、マントラを唱えることが出来なくなってしまった。
「毒素が燃えて、嫌な感情などが沸き上がったりすることもあるから
そうなった場合は、これから離れるように」
というNao先生の注意があったのだが、これは離れたほうがいいのだろうか?
そう思いながら、マントラを唱えることをしばし止めてみた。
12回が終わり、
今度は少し声を高めにして、また12回のマントラが始まった。
今度は、とても気持ちがいい。
胸の中に暖かさが充満していくようだった。
そして、最後。
さらに高い音程で12回のマントラを唱える。
バイブレーションを感じて、少し高揚した気持ちになった。
もっと唱えたいと思ったところで、終了。
シャバーサナになり、Nao先生の鎮静させるマントラを聞きながら
ワークショップは終わった。

帰宅して、今年の重大ニュース番組を見ていた。
ニュースはもちろん「現実」ではある。
けれど、何故かそれが幻想にも思えた。

ヨガの哲学と、遠く離れたネイティブアメリカンの儀式、
同じような考えを持っていたことは興味深い。
そして、日本人もかつては自然に敬意をはらって生きてきた。

これからは、退化してゆくことが進化なのかもしれない、と
そんなことを考えたクリスマスの日。
FMから流れたジョン・レノンの「Happy Christmas」がしみこんだ日。
もがいていた過去の自分と繋がり、「よしよし」と頭を撫でた日。

下腹部が熱くなったのは
数年前、病で取り去ったあの臓器の名残だとしたら、
それにも「ありがとう」と言いたい。。。

OM RAM AGNAYE NAMAHA
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by normalin | 2010-12-26 09:50 | YOGA

破壊

昨日は、息子の入院している病院に行った後、
成瀬貴良先生のYOGAクラスに参加してきた。
ずっと参加してみたかったのだけど、やっと。。。
これも息子のおかげかもしれないなんて、
何でもそう考えるクセが最近ある。

ヨガのTTがそろそろ終わりに近づき、わたしはどこかで
かなり焦っていると思う。
口頭だけで誘導してゆくことは相変わらず下手だし
自分の練習さえ、もしかすると力ずくなんだと思う。
「下手」なんてことを思わないようにしているつもりだけど
どこかで、いや、かなりその思いを押し殺しているのだと思う。

そして、わたしは力ずくが上手なのだ(笑)


電車が事故で遅れ、バタバタと成瀬先生の前に
マットをしき、汗をぬぐうわたしの前で
先生は、ずっと静かに座り、目を閉じてらした。
いつも、多人数のクラスでヨガをしているわたしには
少し気後れしてしまうくらいの少人数。そして静けさ。

ゆっくりクラスが始まり、ゆっくり身体を動かしてゆく。
次第にどんどん内側に入り込んでいった。

「力ずくでやるのではないですよ。。。」
という先生の言葉に、ハッとし、どんどん力が抜けてゆく。
毒素がどんどん出てゆくような感覚。

アーサナの時に出来てきたと思っていた呼吸さえ
わたしは力ずくでやっていたのだと気付く。

とろけてしまう感覚と共に、身体が離れては
フワッと寄り添ってくる、を繰り返す。
感情がどこにも見当たらない。

身体のすみずみに新鮮な空気が流れ込み
細胞の隙間が感じられるようなそんな感覚。

シャバーサナの時だった。
先生の言葉を聞きながら、ゆったりとしているはずのわたしは
急に「地震」を感じた。
こんなに揺れているのに、何故皆は何も反応しないの?
恐怖で心臓が飛び出そうになる。
目を開けてしまった。
呼吸が乱れる。

再び、先生のゆったりとした言葉が聞こえ
そして「揺れ」もおさまった。
そして、わたしはまた心地よく。。。

あれはなんだったのだろう?

昨日は地震なんてなかったらしい。
そうか、自分で揺れていただけなんだ。

昨日、わたしの中で何かの「破壊」が起こったのかもしれない。

「力ずく」で頑張る何かが、飛び出していった「揺れ」なのだとしたら
なんて、ちょっと思う。

何かを手放すときは、
恐怖が付きまとうものなのかもしれない。
昨日は、味わったことのない恐怖だったが
すぐに過ぎ去った。

そうか、大丈夫なんだ。

と思う。

ところで、シヴァ神というインドの神様は
「破壊」の神。
昨日、わたしは出逢ったのかもしれない、なんて思ったりしている。
現状を「維持」してゆこうとしがみつくわたしに。
力ずくで維持してゆこうとするわたしに。

神がかりで大げさな意味ではなく、
ただ、そういうことが起こっただけなんだ。
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by normalin | 2010-11-25 09:47 | YOGA

こころを開く

今日も、親しい友人にヨガクラスの時間をいただきレッスンを終えてきた。
彼女とは、子どもを介して知り合い、そして趣味なども共有できることで
この数年、ずっとお付き合いをしてきた。
実は、ヨガも彼女と一緒に始めたのだけど。

胸を開くアーサナを中心に、昨晩考えたシークエンスを少々たどたどしく(?)
追ってゆくわたしに、彼女は優しい眼差しで応えてくれた。(堪えて?笑)
時間はあっという間に過ぎてしまい、最後にリストラティブという
道具を使ったアーサナをしていたとき、5分のホールドが耐えられなくなった彼女は
自分で起き上がってしまった。
リラックスを促すために使用したアイマスクの状態が恐かったと言う。
謝る彼女に、申し訳なかったと思いながら、わたしはちょっと嬉しかった。
嬉しいというのは語弊があるかもしれないが
「恐い」と口にしてくれたことが、何となく母性をくすぐられたというか。
思春期の子持ちの身ではあるけれど、
他者へ抱く母性というものは、なんてあったかいんだろうと思ってね。
ふいに襲ってきたからこそ、自分でも確認できた心の動きだったのかもしれないけれど。

家に帰り、彼女の恐怖を想像し、少しだけ涙ぐんだ。
それは、きっと自分の中にも存在しているのだとも思う。。。

Nちゃん、貴重な時間を、どうもありがとう。
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by normalin | 2010-11-05 14:08 | YOGA

かもし出されるもの

初めて人と出会ったとき、そこにある空気が心地よいかどうかを
意識外で感じているものだと思う。
とはいうものの、心地良いと感じていた人と付き合いが深くなるうち
意見の食い違いが出てきては、思っていたような人じゃなかった、
なんていう経験もあるわけで。
それは全て「自分」の心地よさだけに満足したいからなのだろうと最近思う。
しかし、その満足は長続きはしない。。。

近頃、人の顔に対する印象がずい分変化した。
顔だけではなく、そのスタイルや洋服の印象も。
全てがその人の目の輝き一つで見えなくなってしまうのだ。
言い換えれば「目」以外はどうでもいい、というか。
もちろん目が大きいとか小さいとか、そんなものも関係ない。
魅了される人ほどその人がどんな姿だったかが思い出せなかったりする。

先週、ヨーガ学派の根本経典ともいうべき
『ヨーガ・スートラ』概論の講義を受け持たれた先生はまさにそんな方だった。
日本女性だが、もう彼女の前にはそんな国籍も、
そして性差さえ関係ないと思えた。言いすぎかな?(笑)
話はユーモアたっぷりで愉快だし、優しさに溢れていて、
押し付けがましいところがみじんもない。
講義が終わると、誰もが満足した表情だったのが忘れられない。

YOGAにも、様々な’流派’が存在する。
アイアンガーヨガvsアシュタンガヨガで、サッカーの試合をした際、
殴り合いの喧嘩が起こってしまったこともあるとかなかったとか。

「勉強を進めてゆくうち、YOGAのスタイルに固執してしまい、
YOGAの本質が見えなくなることが、きっとあるでしょう。
そんな時は、これを思い出し、立ち返ってみてください。」と
先生は、本場仕込みの美しい発音のサンスクリット語で
ヨーガ・スートラ第一章第二節のタイトルを唱えた。
私たちもその後に続き、数回唱えた。

「ヨーガとは心のはたらきを死滅させることである。」

自分を満足させるだけの生き方では、人を満足させられないだろう。
でも、心底自分に満足できていなければ、人を満足させられないだろう・・・。
魅力ある人は、きっとその満足を知っているんだろう。
だから、人を「安心」させ、心地良くできるんだ。
姿が気にならなくなるくらい居心地のいい人。
そんな空気をかもし出す人に、憧れてしまう。

そういえば、7年前に聴きに行ったフジコ・ヘミングウェイのピアノは
ピアノという楽器をも忘れてしまうほど、
フジコさんという人が演奏しているのも見えなくなってしまうほど
心地よく、そして何故か涙が出たっけ。
その人の生き方そのものが伝わってくるとは、そういうことなのかもしれない。。。

Nao先生の講義の様子
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by normalin | 2010-11-04 12:29 | YOGA

見せること。

ティーチャーズトレーニングの2回目が過ぎ”伝える”ことの難しさを感じている。
ポーズを口頭だけで誘導すること、それを易しい言葉に置き換え表現しようとするたび
自分の語彙力、いや、表現力の乏しさを痛感している。
けれど、それは語彙力の問題だけではないはず。
そう、わたしはまだまだ理解をしていないのだと恥ずかしくなっている。
前に「理解」についての話を書いたけれど、
理解とは”相手”なしでは深まらない。と、また当たり前のことを思ったりしている。
いや、恥ずかしながら、わたしはずっと自分の中だけで処理をしようとしていたらしい。
自分の中だけで完結しようとすれば、何も難しいことはなく、
また心が揺れ動くこともないものね。
そう、心が動かされることを恐れていたんだと思う。
だって、静かに過ごしていたいもの。
争いたくないもの。
そして、わたしは自分を「平穏」な人間だと思いこんでいた。
そのほうが生活しやすいと思ったし、心がかき乱されて辛い思いをしないですむし。
でも、それは違ったようだ。
ただ、わたしは体裁だけ気にしていたんだろう。
そうやって「ポーズ」にしがみ付いて生きてきたわたしは、
すでにそういうやり方がしみこんでいるらしく
なんともいえない「迫力」が出ているのか(苦笑)
(それはそれで生まれつきの性質もあるのだろうが)
ティーチャーズトレーニングを一緒に学ぶ友からは大抵
「もう、教えているんですか?」と聞かれる。
最初は、そんな風に見えるんだ、年のせいかな?と思っていたものの
近頃はそれが恥ずかしい。
きっとわたしはどこかで「先生」というポーズでいるのかもしれないと思うからだ。

前回の講義の中で、わたしが好きな先生がこう言った。
「YOGAを伝えるということは、あなたの生き方をそのまま見せるということです。」

恥ずかしい、なんて言ってられない。
と思った。
そして、他人をありのまま理解することにも恐怖を感じている場合じゃない、と。
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by normalin | 2010-10-06 19:56 | YOGA

最近、登山がブームらしい。
山らしい山に登ったのは、中学一年生の夏。
入学した女子校での恒例行事だった。
その説明会のとき、先生がこう言った。
「山登りは班に分かれて登りますが、班の中で皆が歩調を合わせて登るように。
辛いときこそ人間性が出ます。山登りはその人がよくわかります。」
人間性まではわからなかったものの、
わたしは足が痛くて泣いてしまった友人と一緒に登り
しばらく彼女と仲良しだったっけ。
いつの間にか挨拶だけの関係になったけど。

振り返ればそんなに大層な山ではなかったかもしれないけれど
わたしは、あの登山から山登りがキライになった。
だって、登った後は下山が待ってるし(笑)
山頂の空気が清々しかったとか、全く記憶になく
ただ、苦しかったことだけを覚えている。
人間は「痛み」の記憶が強烈だというけれど、、、

昨日、高校二年生の時に学校で富士登山(山頂まで)をした娘が
「山はものすごく晴れてると、その後急激に天気が悪くなるんだ。」
と言っていた。
まるで、最近のわたしの気持ちみたい。
上向きになった後ほど、落ち込みが激しくて
自分でもどうやってそれをコントロールしていいかわからない状態。
でも、どこかでそれを傍観している状態の自分がいて
落ちていく自分を感じるとき”身につけているもの”を確認してるの。
何だか抽象的だけれど、それを確認すると少しだけ落ち着くというか。
例えば、それは大抵「未来」のことだったりするわけで。
自分が勝手に創り上げた「未来」とともに落ちていく映像をイメージ(笑)

苦労して登って、山頂の空気や美しい景色を見たらすぐに下山する山登り。
どんなときも楽しいことなんてあっという間なんだろうと思う。
そして鮮明に記憶されるのは、苦しさや辛さであって
天候に翻弄されてしまうことも、気持ちの揺れ動きにそっくりだ。
天候をコントロールすることなんて出来ないから山小屋で待つ。

そうか、待てばいいんだ。

とは思うものの、待つってすごく大変。
登るより大変。
下るより大変。

大変だと思う裏には必ず「焦り」がある。
わたしって焦る人だからなー。

”そこに山があるから登る”というけれど、
わたしは、そこに山があるけど登らない。
登るんじゃなくて、ただ見ていたい。。。

いっそ山になるべく、今日はタダーサナ(山のポーズ)を練習するかー。
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by normalin | 2010-09-05 14:02 | YOGA