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ヒアアフター

「来世は、絶対一緒になろうね。って言いました。」
と、某アイドルが破局について会見したのはもうずい分前。
子どもだったわたしは
「何だかモヤっとした別れ言葉だなぁ。
余計傷つくよなぁ。そもそも来世なんてないし。」と思ったっけ。

その来世を英語で表現すると
「HEREAFTER」になるらしい。
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映画を観た気にさせるクリント・イーストウッド監督の作品だったので
なんのためらいもなく、映画館の椅子に腰を下ろした。
クリスチャンが多い国で、生死をどう扱ったのかも気になるところ。

さて、冒頭から
「これぞ映画館でなければ味わえない」という迫力のシーン。
そして息苦しさ。
すると、その苦しみから解放されるような穏やかな映像。。。
まるで臨死体験をしてしまったかのよう。

その後は、淡々と「生きる」苦しみが描き出される。
毎日はとても静かで、、、容赦ない。

人間は、お腹に宿ったときから「苦しみ」が始まるという。
胎児のあの姿は、自分の肛門へ顔が向いている。
肛門はインド的に見て「不浄」であるから。と。

”生きることは素晴らしい。
でも、辛いこともたくさん。
だからこそ辛さを乗り切って、ひたすら頑張ろう。”
というような言い回しは、好きではない。
むしろ、忌み嫌っているほどだ。
まるで小学校の頃、教室に掲げられていた
「明るく。元気に。友達をたくさんつくろう。」的な
押し付けに思えるからだ。
小学生の頃は押し付けとは”わからず”
「わたしは暗くて、そんなに毎日元気も出ないし、友達は少ない。」
と落ち込んでいたのだけど。。。

苦しんだ時、人は救いを求める。
それは大抵「外」に向けるものであるから、またさらなる苦しみが重なる。
いつまで経っても癒えない苦しみの中でもがいてしまう。
友達をたくさん作り「合わせよう」と、努力し
ただただ疲労だけが残り、自分は何てダメなんだろう、とか。

映画に戻ろう。
この中で「神」というキーワードはいっさい出てこない。
向けられる対象は「自分」。
だから、ただ静かなのだ。
”何かの存在”を証明するでもなく、
軽々しく元気付けようとする”偽り”もない。
これを観て「裏切られた」と思う人もいるだろう。
また「来世」の存在を明らかにしたいだけの
オカルト的な軽い映画だと思う人もいるかもしれない。

さてわたしはといえば、
映画を観れば、しばらくその世界に漂うはずが
この映画の場合、エンドロールの時点で
あっという間に自分の世界に入り込んでしまった。
面白いとかつまらないとか、そういう感情も沸いてこない。

しばらくして「縁」という言葉が浮かんだ。
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わたし達は、今やネットの普及によって様々な場所で人と出逢うようになった。
偶然出逢ったと思う人。
それは、実は違うのだということ。
その時、自分が求めているものであって
そして、その出逢いによってこころが開いてゆくものだとしたら
出逢いは偶然ではない、と思える。
閉じているから苦しくなる。
しかし、閉じているからこそ見えてくる。
見ようとする時、自分でこじ開けようとするのではなく、
そっと手を添えてもらっているのかもしれない。
そして、添える手は力強くてはいけないと思う。
力を入れた場合、それは押し付けになるから。

この映画には、それがない。
クリント・イーストウッド自身が、そういう方なのだろう。
押し付けがましい刺激物でイッパイのわたし達には、
一瞬理解できない部分も多いかもしれない。

けれど、後でくる。
じんわりくる。
それは、自分との対話を促されたからなのかもしれない。
そして、理解なんてしなくていいと。

イーストウッドの「手」で。
フワッと。

人生は、まぶたを一回瞬いただけのもの。
フワッと。。。
そんな感じで行きたい。

生きたい。

逝きたい。
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by normalin | 2011-02-25 12:14 | MOVIES

one by one

今まで、平然とこなしてきたような日常がここへきてかなりしんどくて
毎日、どうしたら「楽」になれるんだろう、、、
なんてすっかり弱気になっている状態。
けれど、こういう気持ちになると様々な「言葉」が浸透してくるのも事実。
だから、どんなに瞼が重くなっても、必ずこれを読んでいる。

不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話

ポール ブラントン / ナチュラルスピリット



これは対話形式で書かれていて、毎日やっと2~3の質問への答えを読んでいるから
なかなか進まないものの、すでに数十冊の書物を読んでいるような気がするし
今まで読んできた書物が、、、
いや、探し求めてきた「言葉」が、網羅されているようでもある。

若い頃は特に、誰かと急速に親密になればなるほど
必ず、恐怖が付きまとっていた。
本当は一人旅は好きではなかったのだろうけど
逆に一人になることで、その恐怖から逃れることができるかもしれないと
わたしは一人で旅に出た。と思う。
海外であれば、余分な「言葉」など耳にしなくていいと思ったし。
確かに余分な言葉どころか、それ以前の問題であったので
結果、頭の中で過剰な「言葉」が駆け巡ることになってしまったのだけど。
それを何かに書きつければよかったのかもしれないが
その当時のわたしは、アウトプットをそれほど重要だとは思っていなかったのだ。
だから「言葉」の流れは滞ったまま、過剰な「言葉」を身体の片隅に残したまま
いわば、無視をし続けて時が流れた。

無視をし続けていることで、オトナになれたような気がした。
気がした。。。
とは、今現在のわたしの感想。
少し前まで、わたしはオトナなのだと思いこんでいた。
無視は、少しだけ”楽”な気持ちを運んでもきたから
このまま静かに過ぎてゆくのが人生なのだろうと思っていた。
半ば、強制的な静けさの。

けれど、無視の代償は大きかった。
身体にも支障をきたしたし、若い頃よりも数十倍の疑問が沸き起こった。
疑問とは「わたしは何故ココにいるのか?」というものだ。
オトナがこんなことを言えば
「バカじゃないの?」となる疑問。

しかし、わたしはあの一人旅の当時
その疑問に容易く答えていたはずだ。
「生きるため」と。

けれど、今は少し違う。
「この世を去るため」と思うから。
いや、どちらかというとその方に重きがあるような気がする。

今まで確信していたことが、覆されようとするときは
きっと不安定な状態になるものなのだと思う。
YOGAでバランスをとるはずが、実は今こうした気持にもなっている。
膿を出している状態とも思うけれど、そんなものではなく
まるで、身体と脳がバラバラになっているような感覚だ。
けれど、そのおかげで「隙間」ができつつあるかもしれない。
そこに「言葉」が沁みこんでいっているのだとしたら
これはしめたもんだと思う。

ところで、先週土曜日、昨年12月にYOGA学校を卒業した仲間との新年会があった。
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卒業記念に頂いた、卒業演習が録画されているDVDをかけ
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

オリジナルTシャツを作ることになったのだが、それを決めたり
また、チームの名前を決めたりもした。
チームの名前は投票の結果、わたしの案に決まったのだが、
この数日、わたしはずっと「言葉」を考え続けていた。
書物からではない「言葉」について。
とても楽しかった。

チーム名は"one by one"
ひとりひとり。ひとつひとつ。。。という意味だ。

仲間は、一緒にいて楽しい。
親密になった人と、時間を共有することはこの上ないほど嬉しい。
しかし、私たちは必ず「ひとり」になる。
ひとり+ひとりが、融合して化学変化をするようなものだと考えれば
親密になることへの恐怖なんてなくなるだろう。
だから、やっぱりあえて「ひとり」になりたいと思う。

恐怖から逃げるために「ひとり」になるのではなくて
今、この近くにいる人のため、
大好きな人のために。
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by normalin | 2011-02-07 16:02 | YOGA