落語。

この数年、心底笑っていないなぁと思っていて、
いや、どちらかというと人を笑わせたい欲求の方が強いのだけど
「そうだ、落語に行こう。」となぜか決めこんでいた。
震災以降、日本の膿が出てしまっている状態だしね。
いや、それはとてもいいことなんじゃないかなぁ。
この混沌とした状態こそ、人間らしいんじゃないかと思ってる。
けれど、その膿を「絆」というダサい言葉で塞ごうとしているんじゃないかとか
何かと疑り深くなっているから、こういう時こそ「笑い」でしょ、と。

落語は、高校生の頃のわたしの教祖のような存在だったビートたけしの影響で
すでに亡き古今亭志ん生師匠の落語を寝る前に聴いたり、
学生の頃に少しだけ寄席に行ったくらいだけれど、
やっぱり咄家さんの顔や身振りを見ながら聴く落語は最高でね。
けれど、どの咄家さんでも落語だったら何でもいいのか?
と言ったらそれは違うのよ。
そんなこんなで、暫く落語は聞いていなかったのだけど、、、
出会うもんだねぇ。
美容院で眺めていた『AERA』に特集されていた方で、
帰宅して早速Youtubeをチェック。
一目ぼれならぬ一耳ぼれで、すっかりその”語り”に”落とされ”
ツイッターでその咄家さんを即フォロー。
岩本町のカフェで落語の会があるというので、すぐにネットで予約。

いい時代だな。

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オリンピック真っ只中の猛暑の日。
午後7時過ぎに、カフェに着くと
オシャレで若いかわいい女の子の姿が目立ち、少し驚く。
初老のおじさんおばさんだらけだろうなんて思い込んでいたから。

前座の咄家さんに続き、いよいよだ。お囃子っていいなぁ。
高座はとても高くて、上りにくそうだった。
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そうそう、高座って言い方は仏教からきてる説があるらしい。
寺でお坊さんが説法を聞かせるのに、マジメな話ばかりじゃ皆が飽きるから
面白おかしく話したことが、落語の始まりとか。
確かに面白くない授業は頭に入らないしね。
まずは聴衆の頭をほぐしてから本題に入れば、そりゃよくしみこむだろうね。
そう、その”ほぐし方”が、この咄家さん半端じゃない。
すっかり気持ちが良くなったところで、いつの間にか長屋の風景が見えてくる。
落語はたいてい頭の弱い人が登場してくる。
「バカだねぇ、お前は。」と言いながらも、その天然ボケに付き合う人がいる。
ボケてるはずの人物が、意外と的を得ているところも面白かったりする。
おっちょこちょいの人に付き合う姿には、”生き方の余裕”さえ見えてくる。

あぁ、わたし達は本当はこんなにも他者への愛情豊かなんだよなぁ。
あの時代は、わざわざ「絆」なんて言わなくても良かったんだろうなぁ。
何が正しいとか、正しくないとか、そんなこともなかったのかもしれない。
だって、泥棒すら愛すべき姿で描かれているんだもの。

ツイッターが「バカ発見器」と言われているけれど、
現代使われている「バカ」は、だいぶニュアンスが違うと思う。
垣根のそっちとこっちで、言い合っているような意味なのかもしれない。
長屋住まいの時代の人たちは、ネットなんかなくても
きっと、もっともっと繋がっていたんだろうなぁ。
「バカだなぁ、お前は。」と言いながら、「バカ」の言い分もきちんと聞いて。

いい時代...か。


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# by normalin | 2012-08-16 17:21 | 雑記

静止の中の動。

わたしは、10代の頃からマリリン・モンローが大好きだ。
今年は、没後50年だという。
モンローの魅力の虜になったのは、おそらく洋楽だと思う。
アーティスト達が時々、モンロー好きを語っていたから。
楽曲の中に登場するモンローは、わたしにとっても女神のような印象になっていった。
彼女はすでにこの世にはいなかったから、わたしの中ではまさに”永遠の人”。
だから没後何年経ったとか、そんな数字が陳腐に思えてくる。

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10代といえば自分の姿があまり見えていない、というより
「この人になりたい」と純粋に願えるステキで、同時にイタイ時期だ(笑)。
わたしは、まずモンローの眉のディティールに魅了され、
自分の眉が彼女のような美しい曲線を描くよう
母の鏡台からくすねた眉ブラシで、毎日ブラッシングしたものだ。
そのうち、骨格からして「違う」ことを認識し、落胆という大切な経験をしたものの
今でも、あまり時間をかけない化粧の中で眉にかける時間は大きいし、
人を見るときも、まず眉に視線がいっているようだ。

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ところで、動くモンローを初めて観たのは、あるバンドのPVだと思うが
そこで感じたのは、モンローの”ぎこちなさ”だった。
その後、彼女の映画を観るにつけ、どうしても同じ感想にいたってしまう。
写真集を何時間観ていても飽きないのに、
なぜそう思ってしまうのかがわからなかったが
そのうち、モンローの眉の動きにばかり視線がいっていることに気付いた。
眉の不自然な動き。
彼女の必死な演技がそうさせているのか、とにかく力が入り過ぎている。
あんなに魅了された彼女の眉なのに、わたしはそれが気に食わなかったのだ。
写真を見過ぎた結果、動く彼女を追うことに違和感を覚えてしまったともいえるけれど、
モンローの写真は、とにかく想像がかき立てられる。
彼女を取り巻く風の香りまで身近に感じることができるのだ。

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どうしてだろう?

彼女の演技についてあれこれ言う気はないけれど、
映画は、大勢のスタッフが見守る中でワンシーンを何度も撮影するだろうし、
共演者という存在もある。
それがモンローの眉に力がこもる要因になっていたとしたら、、、
自分が迷惑をかけてはいけない
と思う気持ちがそこにあったとしたら、、、なんて想像してみる。

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彼女についての様々な著書には、たいてい「繊細」「孤独」という言葉がつきまとう。
わたしはその表現が好きではないし、そう思ってはいない。
それはどの人間に対してもいえることだし、彼女の死を弄ぶ
”生きている人間”の自己満足にしか聞こえないからだ。
けれど、彼女が愛情溢れた人であっただろうということは想像できる。
カメラのレンズに向かっては、とても無防備だったのではないかと思うから。。
その子どものような無邪気な彼女の笑顔に、わたしはゾッコンなのだろう。

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ヨガのアーサナでは、よく「眉間の間を広くして」と意識を促す。
その度、モンローの眉を思い出す。

子どものままでいいんだよ。って。

無防備でいいんだよ。って。

そうしたら、静止したままの状態でも、わたし達は内側に大きな動きが感じられるはず。

まるで、モンローの写真みたいに...

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# by normalin | 2012-08-12 17:18 | YOGA

写真。

子どもが生まれて、写真やビデオを夢中で撮った。
それを見ることが出来なくなってしまう日など、想像もしていなかった。

娘と息子は、今、難病と共にある。
薬などほとんど服用しなかった娘は、大量の薬を飲んでいて、
その副作用と痛みから、寝たきりになることも多かった。
走るのが速く、体育だけが得意だった息子は、
学校の行事で、大腿骨頸部を骨折し、骨はついたものの、
壊死となってしまった。加えて、ネフローゼ症候群にかかり
現在、ステロイド剤を飲んでいる。
ステロイド剤が、多くの恐ろしい副作用をはらんでいることは良く知られているが
その中の大腿骨壊死という言葉は、わたしを寝かせてはくれなかった。

子ども達はなんて気の毒なのだろう。

そう思う度、胃の辺りがキュっとなり、息苦しくなった。
こういう時は、涙など出ないものだとも知った。

ご近所の方は「お子さんはどう?」と、涙を流しながらわたしの話を聞く方も多かった。
もちろん、共感をしてくださっているのかもしれないけれど、
わたしにはその涙が時々不思議だったし、共感というよりは
きっと遠い遠い話を聞いている感覚なのだろうと思った。

そう、遠い話なのだ。

そしてそれは、わたしが子どもに対して「かわいそう」だと思うことと同じ。

ある人に「代わってあげたいでしょう?」と言われたが、その時
「それはできないわ。」と即答していた。
もちろん、代わることなどできないことを前提としているのは承知の上だったし
「そうね、代われるものなら、ね」といえば、会話はスムースに終わっただろうけれど
わたしは、時々こんな風に話の腰を折ることがある(笑)。

しかし、あの時、わたしは気付いたのだと思う。
子どもの痛み、いや、子どもだけではない他者の痛みを共有することなどできない、と。
それも、勿論知っていたはずだけれど、心からそう思えた。

数年前のわたしが、このくだりを読んだとしたら
「なんて、冷たいの?それでも母親?」と激怒したかもしれないが、
この数年、子どもの病と共に生きてきて、やっとここまでたどり着いた。

わたしが想像する彼らの”痛み”は、やはり想像でしかなく、
その想像が彼らを知らずに追い詰めていることだってあるかもしれない。
それを「母親だから」と見過ごしてしまうことの方が、わたしは気にかかる。

子どもを産んでからというもの、世の「母性」という言葉の乱用に辟易していた。
しかし、わたしはいったいどこにウンザリしていたのかがわからなかった。
おそらく、母親というただの人間を母性という神聖なものに置き換えて
その子どもであるただの人間の人生を
”我が物”にしているようなニュアンスが嫌だったのだとわかった。
これは、たぶん、わたしの歪んだ受け止め方なのだろうけれども。

子どもはわたしを通ってきたに過ぎないのに。

母性は、自分の子どもだけに与えるものではないはずなのに。

「ツリー・オブ・ライフ」という映画の中で、わたしはある言葉に救われた。
子どもを事故で失った母親の苦しみを描いた場面での、
「子どもを守ることはできない」というセリフだ。
今でも時々心の中で呟く。
逆説的に聞こえるが、これが「母性」だとすら感じる。
それだけ辛辣に、そして、優しくわたしに響いた。

そこには、わたしにとっての「許し」が、あった。

わたし達は、力ずくで何かを守る日々なのかもしれない。
幻のような何かを。

それをやめてしまったらどう?

我が子を守ることは、当たり前だ。
けれど、それにばかり必死になってしまうと、子どもが見えなくなってしまうかもしれない。
子どもを見つめるため、わたしは”共有しようと努力する”ことをやめた。
そうしたら不思議なもので、何かが変化してきた。
わたしの目線が、子どものうしろ姿に行くようになったのだ。
そう、彼らの背中へ。

彼らが逞しく思えた。

今日、PCに送られていた、まだ幼い頃の元気な子ども達と写った写真を思いがけず見た。
とても久しぶりに。。。
わたしは、あまりいい表情をしていない。
今の方がマシかもしれない、と思ったら、少し勇気が出た。

幻影のような写真を整理しよう。
ほとんどを捨てることになるかもしれないけれど、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
存在を忘れてもいいくらいの適当さで。
そうすれば、”瞬間の共有”に、敏感に反応できるかもしれないから。
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# by normalin | 2012-04-29 22:10 | YOGA

学ぶこと。

やりたくなかった仕事をやることになった。
医療関係のものだが、職場がそうだから仕方がない。
あまりにもやりたくないから、別の仕事を探そうかと思ったけれど
そんなにも拒絶する確固たる理由が見つからないし
これは贅沢な悩みだろうと思ったので、勉強を始めた。

そう、放射能のことだってたぶん一番やりたくない、
いや、知りたくもなかったはず。
今でも別に好きではないし、
知れば知るほど絶望的になってしまう。
それに、楽観している方からはデマに毒された神経質な人と笑われるし。

けれど、何故かすんなり入ってくる。
好きで勉強を始めたものよりずっと。
そこには思いいれがないから?
というより、やらなければならないという意気込みがあるから?

タイに住んでいたころ、
子どもはまだ小さくて、バスタブに溜めた水に潜れば
ひきつけを起こすほどの高熱と、目が開かなくなるという事態になったり
デング熱とう熱帯特有の熱にかかりそうになったりと
日本ではありえない得体の知れない病で、しょっちゅう病院に駆け込んだ。
だからどうしても、タイ語が必要になって、学んでいたけれど
あれだけ親しんできた英語よりも、スイスイ頭に入ってきた。
生死に関わることだからかもしれない、と思う。
もう、すっかり忘れてしまったけれど。

振り返ると、わたしは自分から好んで学んだことがあっただろうか?

もちろん、ヨガは好きなんだと、思う。
好きだから学び始めた。
しかしこれは、好き、嫌いの範疇には納まらないもの。
ただ、出逢った。
偶然ではなく、合致したようなそんな出逢い。
だから、もともと「好き」だというものでもないし
選んだものでもない。
ヨガだけが最高だ、とも思わない。
ヨガの聖人だけが、素晴らしいとも思わない。

素晴らしいと思える人は、すぐ近くに存在する。

ただ、必要なだけ。

今のわたしに。いや、これからずっと。


日本がこうなってから、様々な知識人といわれる人々の話を聞く。
または今まで知らなかった人、、、知ろうともしなかった人の話。
見知らぬ人の”つぶやき”。
膨大な情報が駆け巡る。
真実はどこにあるのだろう?と焦り、共感し、情けなくなる。
学びとは、真実を求めるものだろう。
けれど、その裏にあるものの偽りが大きく浮き彫りになり、
それを知る度に疲弊してゆく。。。

「放射能が好き。」

と、わたしは先日ある人に冗談まじりに言った。
自分でも驚いたけれど、その人にはいつだって予期せぬ言葉を口にしている。
たぶん、心から信頼しているのだろうと思う。
きっと、自分のことよりも。

原子力を学んできた人々は、もちろん興味があって始めたのだろうと思う。
けれどあまりにも好きになると、何も見えなくなる危険性がある。
恋は盲目。
けれど、恋ではなく、愛がある人は違う。
能動的に学ぶことができると、思うから。
きっと、自分の損得のことよりも。

学ぶしかない。
子どもたちに絶望の姿だけは見せたくない。
アレクセイと泉】のように解明できないことだってきっとあるはず。
と、信じて。
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# by normalin | 2011-11-23 15:22

蝉が啼く、当たり前の夏に。

昨晩、バルコニーにオスの蝉が飛んできた。
網戸に停まり、猫が大騒ぎ。
獲物を狙う体勢の猫が気になって、バルコニーから蝉を出してやろうと
何度も何度も放つが、その度血相(?)を変えて、飛んで帰り網戸にしがみ付く。
あきらめて家に入ると、猫がまた腰を低くして何かに忍び寄る。
その先を見たら、取り込んだ洗濯物に蝉がいた。
啼かないところを見るとメスの蝉。
そうかそうだったのか、とその蝉をバルコニーから放った。
まだ網戸の下にウロウロしていたオスの蝉にお知らせして。
猫や、人間という”天敵”がいるというのに飛び込んできた蝉。
種の保存は命がけ。

彼らは、また逢えたかなぁ。

そう、命がけなんだよね。
人の思想と行動も、種の保存に支配されているというけれど、
その中の、恋愛や育児の他に、
同じ種の個体を助け合うという行動が基本にあるはず。
だから他を助けるという行為は、別に美談でも何でもなくて、当たり前のこと。

けれど、人間の場合「社会」というのが基盤にあるからややこしくなるのかもしれない。
そこに”適応”してゆく上で、様々な「記憶」が書き換えられ、邪魔をする。
例えば、お金やステイタスを保持してゆこうとするとき、
他を蹴落としてゆかなければならない場合だってあるかもしれない。
天敵を持たない人間は、戦争によって進化し、
種の保存を保ってきたという説もある。

けれど、人間が創りだした”天敵”は、もはや手におえない。

今、種の保存の視点から捉えれば、まさに危機的。
”負”の状況下にいるというのに、どういうわけかとても静かだし
受け入れてしまっているようにも見える。
”天敵”に対して、口をつぐんでいることが”正しい”ことのようにさえ思えてくる。
社会のルールに従っている?
それを「知的」と言うの?

わたしは今、どうも国自体が異常行動を起こしているようにしか見えない。
これはきっとエラー状態なんだと思う。
まるで麻薬の薬が切れかかっているかのような、そんな感じ。
ここで断ち切らないとオーバードーズだよ。
もう、すでにそうだったのかもしれないけれど。

「とんで火に入る夏の虫」にならないために、人間には知性がある。
これを使わないのは、どうかと思う。
いや、そもそも人間自体がエラーだったのかもしれないけれど、、、
でも、だからこそ智恵を授かった。これを駆使しないとって思う。

実に当たり前のことだけれど。

それを駆使するっていうのは、考えすぎることではないと思うんだよね。
自分の”知識”において、それは違うとか正しいとか。
あれはニセモノだとかホンモノだとか。。。
それこそ”記憶”や”肩書き”が邪魔をする。
考え過ぎない方が理解しやすいこともあるとおもう。

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蝉を、ただ”観察”するみたいに。。。

さて、蝉は来年も、当たり前に啼いてくれるだろうか...
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# by normalin | 2011-08-19 23:31 | 雑記