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映画「A2-B-C」を観て~ヨガ的視点から~

久々の更新です。
頭でぐるぐるめぐらせていることを文字にするということは
自分を客観視するうえでも大切と「書く」ことに目標を掲げたものの、
このありさま。。。
続けることが、いかに難しいものかと痛感します。
けれど、一方で続けることがどれだけ力があるかを体感していることもあります。
それはヨガの練習かもしれません。
一言でいえば、ヨガは自分の身体を使いながら、その身体を客観してゆくことで、
心を穏やかにしてゆく練習をします。
近頃、気持ちが変化する直前に、自分の呼吸が乱れ始めることに気づくことがあります。
とはいうものの、ほとんどは“気持ち”に流され、穏やかとは正反対の状態になっているのですが(苦笑)。
しかし、わたしはたぶんそんな自分の「気持ち」にさえ無視をして生きてきたと思うので
「あ、今こんな気持ちになったんだ。」ということを観察できるということだけでも
ヨガがもたらしてくれた副産物に感謝をしています。
余談ですが、ヨガはその気持ちについても「いい」「悪い」をジャッジせず、
気持ちより「今起こっていること」に意識を向けてゆくのです。
(そもそも気持ちはあっという間に変わりますし、何かの影響ということもあるので、いい加減なのものかもしれないですね。)

おかしいですか?
自分の気持ちがわからないなんて。
でも気持ちを「封じこめる」という作業をしたことはありませんか?
「今、こんな風に思ってしまった自分は、よくない人間なんじゃないだろうか?」とか。
たぶん、知らずに自分を罰していることがありますよね。。。
しかし、それをしているのは「本当の自分」なのでしょうか??

それにしても「気持ち」と連動する呼吸の乱れ、また「呼吸」の乱れが血流さえ変えてしまっているような身体の変化に、時々ゾッとします。
ストレスとは、このようにして知らぬ間に蓄積してゆくものなのかと思います。

昨日「A2-B-C」という映画を観ました。
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昨年から観たかった映画です。
観たいというより「観なければならない」と言う方が合っているかしら。
断片的に、ネットに上がっていた動画を観ていたし、この3年の間、自分なりに想像を膨らませていたから、かなりの覚悟をもっていたつもりです。
が、冒頭からずっと息苦しくて呼吸が乱れました。
呼吸を整えようと深呼吸をすれば、吐く息の時に涙が出るの繰り返し。
それは生身の子どもの姿。子どもの生の声。そこから発せられるありえない「言葉」の数々でした。
そこにいるお母さんたちは、とても冷静にすべてを見つめていました。

ところで、わたしの子どもは、二人とも通院しなければならない病と障害を抱えています。
子どもの身体のことについて詳しくなってゆく過程を振り返ると
「自分はこんなに勉強ができたのか。」と思えるほどの集中力だし(言い過ぎ)、なんといっても
「勘」が働くものなのです。これは数値に表されるような理屈ではないのです。
しかし、映画の中で、お母さん達の「勘」を踏みにじるような”対応”があからさまになっています。
原発事故直後、これについてはネット内でもお母さんを蔑むような言葉を目にしました。
(その中には、残念ながら政治に携わる方もいらっしゃいました。)
「子どもを守りたい」
という当たり前のことが困難であるなんて。
映画では、その土地ならではの「人間関係」というものへの示唆もあります。
これはどこにいても、わたし達が直面する一番の問題なのかもしれませんが。

「放射能」という言葉を使わないようにする空気もあります。
「原発」という言葉を入れただけで、ネットから削除されるという噂も聞いたことがあります。
どうしてなのでしょう?
もちろん、わたしも肌で感じてはいます。

わたしはそんな「空気」を感じることこそが一番恐ろしいと思います。
「いい」「悪い」をジャッジしているのは誰ですか?
また、そんな「空気」だと捉え、感じているのは誰ですか?

こうして書いてきて、わたしが映画の上映中ずっと苦しかった理由がわかりました。

「この空気」です。

今、起こっていることはなんですか?

ただ、それだけなんです。
それだけのことに、どうしてこんなにも困難が付きまとうのでしょうか。

この映画のタイトル、「A2」「B」「C」は、甲状腺に発生した嚢胞(のうほう)や結節(しこり)の大きさに応じた検査の判定結果のことを言います。
聞きなれず難しいですが、監督があえてこのタイトルにしたのかがわかるような気がします。
ただの「観察記録」だからなのだと思います。
しかし、その観察記録ににじみ出る監督の「人間」への愛が感じられます。
原発事故に目を伏せて、ひたすら応援するような薄っぺらい愛ではなく、もっと深い愛です。
また、このような事故がなければ、ふつうのお母さんが「A2」「B」「C」などという専門的な言葉には一生触れなくてよかったはずです。
そんな皮肉めいたことも、感じました。

ところで、観察ということが「科学者」の定義なのだとしたら、ここに出演する母親はみな科学者です。
冒頭に出てきた学者の方よりも科学者でした。
けれど、苦しいですよね。
それを「報告」すらできない「空気」なのですから。
これは日本に限った話ではないようです。
ある漫画家さんについて大騒ぎしている大人たちのことを子どもはどう思うのでしょうか?
ただ「報告」をしただけで、こんな状況になることについてどう思うのでしょうか?
本当にみっともないことだ思います。

ヨガの話に戻りますが、ヨガにはチャクラというものがあります。
チャクラの数は会陰から脊柱を通り頭頂部までの7個。
それぞれが掌るといわれるものを、下からざっとあげてみます。
生存~願望~意思~愛~自己表現~智恵~高い意識(霊性)
甲状腺の部分(喉)は、自己表現にあたります。
子ども達が、どうか、自分たちの表現を失うことのないように、
また、子ども達が自由に自分を表現できる未来であることを祈ります。

祈る。
は、わたしの中で意識です。

穏やかな呼吸を続けることが出来るように、意識しながら...

マットを離れても、ヨガってできるんですよ♪
簡単でしょ?
この世の中を、複雑かつ窮屈にしているのは、わたし達自身なのかもしれないですね。。。
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by normalin | 2014-05-11 17:31 | YOGA

悲しむということ  ~映画 「朝日のあたる家」~

わたしは10年ほど前に両親を相次いで亡くしました。
あまりにも悲しい出来事であったはずなのに、なぜか想像をしていた程泣けなかったのです。
きっとまだ緊張が続いているのだ、疲れているのだと自己分析しながらも、
次第に 、このままでは精神的に参ってしまうのではないかという不安感に襲われ、
もともと興味を持っていた精神世界へ足を踏み入れていきました。
それがヨガでした。
学んでゆくにつれ、明るい光を求め始めたのですが、
どん底に突き落とされるような感覚に何度も陥りました。
その辺りだと思います。
両親が本当にこの世にいないのだと思えるようになったのは。
「あぁ、話したいなぁ」と思っては、胃の辺りがキュっとなる苦しい淋しさを味わえるようになったのは...
そして、やっと両親への感謝の気持ちがわいてきたのです。
光を探すには暗闇が必要だと知りました。
わたしは両親の死を受け入れてはいなかったから、泣くことができなかったのです。
当たり前のことをもっともらしく書いていて、なんとも滑稽ですが、
悲しみを、ありのまま受け入れるということほど、私たちが不得意としているものはないかもしれないと
原発事故以降は特に実感しています。それは今も継続中ですが...

もともとチェルノブイリ原発事故に恐怖を抱いた青春時代があったので
それがこの日本で起こったことを知った瞬間は、頭が真っ白になりました。
しかし、周囲はまるでのんきに過ごしているようにみえ、
「テレビでそんなに言ってないから、大丈夫なんでしょ?」という反応を聞く度に
得体のしれない恐怖がわいてきて、孤独感を募らせる毎日でした。
それからは周囲の方が、わたしを遠巻きにするほど様々な情報を得ることに必死になっていました。
つのりゆく政府の対応への不信感、この世の中の、世界の原発構造への憤り、、、

そして、、、もちろん、福島の方々への想像をできる限りめぐらせてきたつもりです。



しかし、それは甘かった。



映画「朝日のあたる家」の冒頭から、わたしは終始泣き通しでした。
こんなに泣いたことはないです。
様々な種類の涙でした。

実はわたしは「泣ける映画」と謳った映画には全く興味がありません。
それほど「泣かされる」ことが嫌いなのです。
この映画は、泣かそうと工夫された場面はおそらくどこにもないのです。
ただただ淡々と、原発事故のあの日から起こった出来事が描かれているだけですから。
しかし、わたしは涙が止まりませんでした。
そしてそれは想像をしてもしきれない、私たちが味わったことのない
全く違った種類の「悲しみ」だと感じました。



この国は、いったいどこへ行こうとしているのだろうと思います。


「悲しみ」を置き去りにして。



光が暗闇の中でしか見いだせないとしたら、
私たちは、まず、この暗闇を見つめなければならないと思います。
きちんと悲しむことをしなければ、先へ進めないと思うのです。
いや、進んではいけないと思います。

映画冒頭に映し出された富士山に、わたしは突然涙が溢れました。
その切ないほど優雅で美しい姿に、心の底から申し訳ない気持ちになりました。
そして、なぜか「さようなら」という言葉が浮かびました。

日本語の「さようなら」は、
「さようであるならば」(そうならなければならないならば)というのが語源といいます。
これまでの状況を受けとめ、総括して次に移ってゆく。。。
悲しみ、そして「さようなら」と別れ、次に移る工程をきちんとこなすことが
未来の人々への思いやりだと思うのです。

今までの日本ではないのです。
けれど「さようであるならば」
私たちは、次の段階に進まなければなりません。

きちんと悲しんだ後で。
たくさん、泣いた後で。
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※わたしは縁あって、この映画を微力ながら応援させていただいています。
 太田監督の対談が上映前後に催されていますが、
 ここに、作家山川健一さんとの対談をアップしたものを張らせていただきます。
 とても深いお話です。
 



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by normalin | 2013-11-04 00:46 | MOVIES